きちんとグッド・バイ


テーブルごしに、あなたの美しい鼻を見ていました。まるで今朝できたばかりのような、栄養豊かな土壌で大切に育てられた新鮮な果実のような、その鼻を。
「なにを見てるの?」
と訊ねられたので、
「将来のこと」
とうそぶきました。美しい鼻を持つあなたは、ほんの少し眉をしかめて、それでも「なるほど」と言いました。「うそだよ」という言葉が喉の奥でひっかかったまま出てこないので、僕はなんとなく満足してしまい、将来のことと、江國香織の小説のことを考えました。  

美しい白馬の写真を撮った、甘い蜜をいつまでも身体のどこかへ隠していた美しいあなたは、僕の平凡な顔を特別なものとして見てくれました。感情のうごきをひとつとしてとりこぼさぬように、いつでもその大きな瞳をひからせてくれていたのです。
僕はその視線を外してみたりして、子どものようにふるまっていました。なんとなく「ごっこ」のような軽さをずっと感じていました。夜の星も、胃の病気も、どこか他人の話のようでした。  

秋が来て、あなたと別れたあと、美しい白馬の写真は僕のことを責めました。激しい言葉で詰め寄るのではなく、無言のうったえというか、最後通告のような、したたかでいて、いちばん恐ろしいやり方で。ちょうど、別れ際に僕があなたにしたのと同じように。
僕は美しい白馬の写真に目隠しをしました。東の壁へ、その瞳をくっつけてしまったのです。今でも美しい白馬の写真は東の壁を見ています。部屋にいる僕から見えるのは、額の裏の薄っぺらなベニヤ板だけです。
たまにひっくり返して様子を見てみると、美しい白馬の写真は「おいっ!」と大きな声を出します。僕はその度にびっくりして、また東の壁にその瞳をくっつけます。さようなら。  

*  

僕は精一杯の愛情と正義感で、四六時中、美しいあなたのことを考えました。僕らは、木枯らしのふく厳しい寒さを、いくつかの素晴らしい経験の共有を頼りに乗り越えようとしました。僕はいつでもナイフを脇に抱えて、冗談を言いながらキスをしました。
「快楽」というものは、もっとも恐ろしい存在で、今でも考えただけで僕は身震いしてしまいます。セックスというのは、誰が誰のためにするものなのでしょうか。べたべたしたあの気持ち悪い付属品を男性の先端に付着させてまで、しなきゃいけないことでしょうか。  

*  

「今日よりも、明日の君のほうが好きだよ」
 僕の好きな男は、僕の肩を抱きながら、いともたやすくそんなことを言いました。僕は一瞬で汗をびっしょりとかき、文字通り、身をのけぞらせて精一杯の微笑を浮かべました。脳は沸騰するように混乱して、僕の意識は故郷の山の頂上に在りました。寒空のしたで小学生の僕は、犬のリールを持ちながら、愛犬の濡れた鼻を見ていました。健康の証のようなくろぐろとした鼻。誰もいない小さな山の頂上で、僕は当時の流行りの歌を歌いました。
それは鼻歌のように気楽なものではなく、東京ドームでソロコンサートを行うときのような、しっかりとした発声でした。観客はみんな満足そうに拍手を送りつづけ、声援は波のように段々と大きくなりながらステージまで届きます。バンドメンバーは楽しそうに、とくにベースはにこにこと笑い、ドラムや僕とアイコンタクトをとります。犬はたまに迷惑そうな顔をして僕のほうを見ます。
そう、犬は、犬だけは、僕の歌を好きではなかった。  

「…リンゴを食べよう、さっき切ったんだ」
僕は肩に置かれた好きな男の手を、なんとか自分のひざの上まで移動させながら言いました。好きな男は陽気に頷いて「リンゴ」と確認するみたいにつぶやき、僕から離れました。その日は土曜日で、時間は夜の9時になるところでした。  

“今でもそんなにも許せないかい” 
スガシカオが脳の内側で僕に尋ねます。

“Please make baby, そのナイフで リンゴジュースをつくろう”  

*  

強力で、理不尽なほど強烈な、愛の匂いがします。ちょっと古くなった果実のような、あまずっぱいあの匂い。人間というのは、その器から溢れんばかりの感情と体温を“誰もが”持っていて、僕にはそれを受け止める術が(どうやら)ありません。
僕は観念して、持っていたナイフで自分の胃のあたりを刺しました。匂いがしなくなるまで、意識が完全に途切れるまで、何度も。美しい白馬の写真は、東の壁をにらみながら、きっとまだ僕のことを許してはいないでしょう。  

さようなら。


#掌編
#ショートショート
#スガシカオ
#cakesコンテスト

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