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想像遥か越え綺麗である

堂本剛さんが突発性難聴を患ってからどれほどの月日が経ったのでしょうか。
この話を詩にしようかエッセイにしようか随分と悩んだのですが、わたしのいま立っている場所からだと、うまく詩に収められないかもしれないのでエッセイにしました。



剛さんが突発性難聴で入院したというニュースを最初に知ったとき、わたしは剛さんの歌声が失われてしまうのではないかと思いました。

耳が正常に機能しないことは歌唱において様々な悪影響を及ぼします。

①ちゃんと歌えているか判断できない
②無理に大きな声で歌おうとする
③発声が乱れる
④喉に負担がかかる
⑤喉を傷める
⑥ピッチ(音程)が乱れる
⑦録音した音源を聴いてゾッとする
⑧さらに大きな声を出そうとする…

この繰り返しで、あっという間に歌声は死にます。

わたしは音楽の専門学校で歌を学んでいたのですが、もともと耳があまり良くないのと、基礎の発声を習得できておらず、いわゆる喉声というやつでずっと歌っていたので、フルバンドで歌うときは自分の歌声がほとんど聴こえていませんでした。
自分の声が聴こえないのは本当に不安なことです。イヤモニを使っていなかったので、モニタースピーカーにぴったりくっつくような形でいつも歌っていました。それでもすぐに喉を壊して、高音が思ったように出せなくなりました。

ある先生にそのことを話すと、

「人間の声は"楽器"なんだよ。丁寧に手入れして使ってあげれば、いつまでも味のある音が出る。ビンテージのギターみたいにね。逆に手入れを疎かにしていれば、ただのギーギー音の鳴る古いガラクタになってしまう。あなたの声は一点物だから、優しくしてあげなさい」

と言われました。
(こんなカッコつけた表現はしてなかったですけどね。このような趣旨のことを言って頂きました)

わたしはこの言葉にひどく感動して、喉に負担の少ない発声を探すようになりました。

ご存知の通り、剛さんの歌声は名器です。
『カバ』というカバーアルバムを聴いたとき、あまりのしなやかさにわたしは腰砕けになりました。そして泣きました。剛さんの歌声が素晴らしいことなんて、当たり前すぎるほど知っていたのに、はじめて剛さんの歌声を聴いたような気持ちになりました。

そんな名器が、突発性難聴によってどう変わってしまうのだろう…と、わたしは半ば諦めた気持ちでいました。

ほんとうに失礼な話で、奈良の方角に手を合わせて謝りたいくらいなのですが、もう充分すぎるほど剛さんの歌声は味わったし、感動も貰ったし、救われたし、と自分の中で勝手にどこかに収束させようとしていました。
たぶん怖かったのです。変貌した歌声にショックを受けるのが嫌だった。だからその前に終わらせようとしました。

ですが、退院してしばらく経ってからたまたま観た歌番組で剛さんはわたしの想像と逆の形に変化していました。表現の仕方が難しいのだけど、病気にかかる前よりもより丁寧でより音に寄り添った歌になっているように感じました。
それこそ、指先でわずかに触れただけで優しく味わい深い音を出すビンテージギターのように。

わたしはテレビの前で呆然としました。
"どうしてこんなに綺麗に歌えるんだ?"
聴こえにくいし、音そのものが身体へ及ぼす影響も負担も凄まじいはずなのに、どうしてこんなに優しく歌えるの…
わたしには分かりませんでした。

それから何日もそのことについて考えました。
片耳を使えない状態でステージに立つことについて
もしかしたら音にそれほど頼らずに歌う方法があるのか?とか(利き手のような)利き耳というものが存在するとして、それと逆の耳を患ったのだろうか…とか。

※後日この記事を読んだ方に剛さんの患っているのがまさに"利き耳"であると教えて頂きました。
ありがとうございます。

しかし、いくら考えてみても答えが見つからなかったので堂本剛さんのことが大好きな友人にLINEで質問してみました。
そしてその友人の返信がほとんど全てのことを説明してくれました。「受け入れるということ」について、今でもわたしは考え続けています。

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わたしはまだ剛さんのことを理解できていないようです。
彼は、想像遥か越え綺麗です。



#エッセイ #堂本剛 さん #突発性難聴 #故意

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