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【詩】水曜日の満員電車 - リマスター

満員電車に揺られて目的の駅へ向かう。スーツや制服に身を包んだにんげん達は、疲れ、苛立っているように見える。水曜日のいつもの光景だ。週の真ん中で、程度の差はあれ、誰もが疲労を感じている。電車が駅に着くたびに、大量のにんげんが吐きだされ、同じくらいのにんげんが吸いこまれる。そのたびに僕や他の乗客たちと身体がどしどしぶつかる。僕はどうにか一定の場所に立っていた。アナウンスが「混み合わないよう、左右に分かれてご乗車ください」と言っている。どこだってにんげんだらけだというのに。  

すぐ目の前に、淡いグレイのストールを巻いた女の人が、こちらも窮屈そうに立っている。柔らかそうな生地の白いブラウスを着て、髪は後ろで一つに結っている。毛先だけが白色に近い金髪で、他は濃いめのブラウンだった。肩から提げた朱色の鞄には、マリメッコの刺繍がされている。足元は、他のにんげんがたくさんいるので、僕の位置からは見えない。その女の人は、ある地点まで電車が進むと、ぎゅうっと身体を硬直させて、両手で左右の耳を力を込めて塞いだ。10本の指はかたかたと震えている。どうしたのだろう、と思った。女の人はそこから何駅過ぎても、ずっと同じ体勢で耳を塞いでいる。両耳を塞ぐ力は、電車が駅を過ぎる毎に強くなっているように見える。この電車の中で、聴きたくない音があるのだろうか。あるいは何かを聴いてしまったのか。気がつくと、僕の膝もガクガクと震えていた。まるで生まれたての子鹿のようだった。どうして震えているのか分からなかった。特に今、僕は何も恐れてはいない。意識を集中するために目を閉じようとしたが、混み合っている電車でそれは不可能なことだった。僕は両手に覆われている女の人の耳のあたりを見る。相変わらずそれは、強く押さえ込まれている。この女の人はどこで電車を降りるつもりなのだろうか。音を遮断した世界(あるいは密着した両手からは海底のような音が聴こえているかもしれない)から、どうやって動きだすつもりなのか。  

電車がとある駅に着くと、女の人はいきなり両手を両耳から解放した。車内は以前と変わらず混んでいる。女の人は涼しい顔で、マリメッコの鞄から文庫本を取り出して読みはじめた。まるでさっきまでとは別人のように、背筋も伸びている。初めて見るその女の人の耳は、つるんとして、綺麗だった。どうしてだろう。僕の膝はまだガクガクと震え続けているというのに。  

僕は色んなことが怖くなってきた。さっきまでただのにんげんだったスーツ姿のサラリーマンや、制服を着た女子高生たちがみんな敵に見えた。駅で電車が止まっている間中、まわりのにんげんがずっと、僕を見て何かをぶつぶつ言っているような気がした。僕は思わず自分の両耳を手で塞いだ。瞳孔が開いているのか、視界は狭く、ゆらゆら揺らいでいる。今では膝だけではなく、全身が、がたがたと震えていた。この女の人だけが味方で、あとのにんげんたちは敵なのかもしれない。敵たちは、いずれ僕のことを蹴飛ばすかもしれない。ナイフで何度も刺すかもしれない。罵声を浴びせて、僕のことを辱めるかもしれない。僕は力を込めて両耳を手で塞いだまま、文庫本を読む女の人の、露わになった耳をずっと見ていた。    

(2013.5.18 初稿)


#詩

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