イベリスアリッサムサカキ

彼女は前髪を手で直すとき、困ってもいないのに眉毛を少しだけハの字にする。ぼくはそれを見るのがわりと好きだ。春先は気分が鬱ぐのであまり外に出たくないのだけど、前髪のことを考えれば、まあ、すこしなら歩いてみましょうか、という気持ちにもなる。

それでも
、人ごみの中に入ると、自然と膝が震える。ぼくは待ち合わせ場所につくまでのあいだ、歩を進め
ながら、右足、左足、右足… と順番に唱えていく必要があった。そうしないと、立ち止まってふわり
ぱたりと倒れてしまいそうだった。

イヤホンからは録音しておいたラジオを流している。ラジオはいつもぼくだけに話してくれる。同じ話を何回も繰り返し聴いているので、もうすっかり会話を覚えていて次の次の次に何を言うかまで知っているのだけど、それでも笑ってしまう。というか、知っているせいでオチ前でもう笑ってしまっている。

駅前の花屋の前。やっと待ち合わせ場所についた。彼女がまだいないのでぼくは花を観る。興味もないのに、花の名前が書いてある名札の文字を順番に唱える。

イベリス。アリッサム。サカキ。イベリスアリッサムサカキ。イベリスアリッサムサカキ。

語感がなんとなく気に入ってそればかり言っていたら、おばさんの店員が不審そうにこちらを見ている気がしたので、くるりと道路側に向き直る。

彼女はすぐ真後ろに立っていた。ぼくはびっくりして「おぅ
ふっ」と、よく分からない声を出した。

「花買うの?」彼女は言った。

「あ、いや、買う?」
「女はみんな花が好きなのよ」
「どれが好き?」
「イベリスアリッサムサカキはどれ?」


#詩 #Poem

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