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いきのこりぼくら

このあいだ突然思い立って、小学生のころ遊んでいた家の近くにある森へ行ってみた。

当時、私の家は犬を飼っていて、散歩中に私の気分が向いたときだけ本来のルートから外れて、ぞわぞわと木々が生い茂る森にふたりで入っていた。犬は鼻をいつも以上にくんかくんかと鳴らして、誰にも荒らされていない新鮮な落ち葉の絨毯やトトロに出てきそうな立派な木の根元の薫りを楽しんでいた。

一方で、私はいつも「遭難ごっこ」をやっていた。"樹海のように広大な森に犬とふたりきりで迷い込んでしまった"という設定で(実際は小さな森だった)悲観に暮れながら森を歩きまわるのだ。頼れるのはこの小さな愛犬だけ。私は道が全然分からないので、犬が進む方向に道があることを信じてついていく(本当は家はすぐそこに見えている)

・・

「ねぇ、家はどっち?」
私は犬に尋ねる。犬は私をちらりと見てから、ぐいと紐を引っ張って歩きはじめる。

心の中では"逆だな〜"とか思っているのだけど、家からどんなに遠くなっても犬についていくのが「遭難ごっこ」のルールだった。

私は心から後悔する。

食料も地図も持たずにこんな森に入るべきじゃなかった。せめて方角が分かればいいのに、木々に覆われて空はほとんど見えない。犬もそのうち歩き疲れてしまうだろう。そうしたらぼくたちはもうきっと助からない。お母さんお父さん…助けてくれ…ごめんなさいもうしません(何を?)

えらいもので、だいたいふたりとも満足したあたりで、いつも自然と犬は家の方向に歩きはじめた。家の辿り着くまでが「遭難ごっこ」なので「こっちで本当にいいの?」とか言うのだけど、犬はもうこちらを見もしない。何言ってんの?という表情で、すたすたと先を歩く。犬のほうが大人だった。

いつもの数倍の距離を歩いてやっと家に到着したら、まずお皿の水を取り替えて、それからぐしゃぐしゃに犬を撫でてやる。

「おかげで助かったよ〜賢い子だ〜」

・・

・・

犬はもう何年も前に亡くなってしまって、いまでも変わらず寂しいのだけど、森を歩いているとき右手をわずかに引っ張られている気がした。連れていってくれるのなら、またどこまででも行きたいよ。


#エッセイ

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