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読み方百景

編集部の西藤 太郎です。

本というメディアは「読む」ことしかできません。

確かに、ページに書き込みをしたり、
何かの重しとしたりする使い方がないわけではありませんが、
それはひとまず脇に置いておきましょう。
 
ところが、たったひとつの「読む」ことについて、
どう読めばいいのかという禅問答のような議論が起こります。

今日はそんな「読む」ことについてお話したいと思います。

 
本を、最初から終いまでひと文字も欠かさず
読むものだと考える
ひとがあります。
 
知り合いに
「お金を払って買ったものを飛ばし読みするのはもったいなくて」と
恥ずかしげに話すひとがいました。

貧乏性と片付く話かも知れません。

しかし、一面、少なからぬひとの本音を代弁しているようでもあり、
案外、笑い飛ばせない意見です。
 
一言一句を舐めるようにして読む、
いわゆる精読は時間を多く要します。

一方で、同じ時間をかけるなら、
一冊でも多くの本に目を通したいというのも偽らざる人情でしょう。

特に、読書が生涯年収の総額を上げ下げするといった
まことしやかな噂を仄聞すれば、心中穏やかならず。
 
一冊の本を深く読むべきか、
たくさんの本を浅く大量に読むべきか。

質と量のトレードオフをいかに考えれば良いものでしょうか。
 
こうした悩みが背景にあるからでしょう。
速読の本が書店に並ぶとよく売れます。

速く読めるようになれば、それだけ多く読めますから。
 

逆の発想もあります。
本を読む時間を圧縮するのではなく、
時間を増やせばいいという考え方
です。
 
24時間を2倍にする本が売れました。

10分を1時間と見なせば
一日は144時間になるという本もありました。

ここまで行くと少々やりすぎだと思いますが、
時間生産性向上に寄せる大衆の関心はことほどさように高いわけです。
 

ただ、肝心な点を言わない速読本も多い。
 
知識を持っている分野の本は、
速読術の有無に関わらずだれでも速く読めます。

初めての道を歩くと長く、勝手知ったる道は
逆に短く感じるのと同じことです。

知っている情報を脳が端折り、結果として速く読めるのです。
 
試しに、速読の技術を身につけたあと、
『義疏六帖』を読んでみてください。

やはり速くは読めないはずです。
どれだけ技術を身につけても知らないものは速く読みようがありません。
 
多くの文字を捉える視野の訓練も、
本来は日々の読書を欠かさなければ、おのずと向上します。

まさか、読書の習慣をもたぬまま、
速読だけものにしようというひとはいませんよね。
 
老眼、これはいかんともしがたいです。
手元の字が見えない。

老親の多くが息男息女に読書を説くのはこれが理由でしょう。
年取ってから本を読もうと思っても、目の負担が大きくなり、
自由に読めなくなります。

親の意見と茄子の花に無駄はないのですね。
 
閑話休題。

読書家として知られる松岡正剛氏は
『多読術』という著書のなかでこんな読み方を紹介しています。
 
「感読」「耽読」「惜読」「愛読」「敢読」「氾読」「食読」「録読」「味読」「雑読」「挟読」……。
 
それぞれの読み方について特に説明はありません。

ぜひイマジネーションを膨らませてみてください。
どんな読み方なのか、絵面が浮かんできませんか。

 

松岡氏があえて説明しないのは、
みなさんがこれらの言葉からイメージした読み方
すべてを正解だと考えるからです。

言い換えるなら、本の読み方に正解など存在しないということです。
 
知識を得るための読書ならば、
あるいは一言半句を漏らさず読む精読が正解になるでしょう。

しかし、多くの名言がそうであるように、
たった一行がひとの人生を変えることもある。

そうであれば、「挟読」どころか
「寸読」「微読」であったって悪いことはありません。
 
コスパや量の多寡だけを切り口に
読書に取り組むのは大変もったいないことです。

自分だけの「○読」を編み出し、
その方法を世に広めていくようにしてみてはいかがでしょう。

ちなみにわたしは典型的な濫読です。

DNAパブリッシング株式会社
編集部 西藤 太郎

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