思い出すことなど(25)

翻訳に関する思い出を「思い出すことなど」と題して、色々と書いていきます。

(前回の続き)

八景島シーパラダイスに行ったあとも、特に状況は変わらなかった。周りからバカにされながら、うまくいかない仕事をなんとかこなす日々。何も面白いことはないし、希望もない。映画のマイケル・J・フォックスみたいにうまくやってやろうと思っていたけど、これは現実、映画とは違う。結局は甘い考えでしかなかったのか。そんなことを思っていたある日のこと・・・

「夏目君、3階から内線入っているけど」

コーディネーターのお姉さんから急にそう言われた。営業部は2階だったが、翻訳部はその上の3階にあった。3階から電話というのは、つまり翻訳部からの電話ということだ。何の用だろう。どうせろくなことではあるまい。ともかく電話に出た。電話の主は翻訳部長のHさんだった。

「あ、夏目さんですか。ちょっと聞きたいことがあるので、すみませんが上まで来てもらえませんかね」

なんだなんだ、どうしたというのだろう。行ってみるしかあるまい。階段を上がる。すぐに翻訳部のブースが見えてきた。

「なんでしょうか」

「あ、あのですね。夏目さんはコンピュータの会社にいたんですよね。コンピュータ関係の文章でね、誰もさっぱり意味がわからないのがあるんですよ。ひょっとしたら夏目さんならわかるんじゃないかという話になって。見てもらえますか? これなんですが。もしわからなければいいです。お気になさらず」

「わかりました」

渡された書類を見る。0.5秒で「はっ」とした。これは・・・と思った。しめた!

なんと、前の会社で毎日使っていたシステムに関する文章だったのである。これなら自分の手のひらくらいわかっている。よし、いけるぞ。

「これはですね、〜ということが書いてあるんですよ。なので、日本語にすると〜という感じになります」

話している間にその場の空気が変わっていくのがわかった。皆の私を見る目がみるみる変わるのもわかった。その目はこう言っていた。

「なんだ、こいつ、やるな!」

いくらできそこない技術者といっても、普通の人たちの中に入れば、その知識は並大抵ではなかったらしい。クリプトン星から地球に来たスーパーマンみたいなものか(どうだろう)。

「ああ、そういう意味でしたか。ばっちりですね。じゃあ、もうそのまま今、全部、訳してから戻ってください」

なんと、ついに訳文を見てもらえる時が来た。まさにチャンス到来だ。でも、張り切りすぎてはろくなことがない。とにかく冷静に普段どおりに丁寧に・・・そう思って訳し終わり、Hさんに見せた。

「あ、いいですね。うまいですよ」

「ありがとうございます!」

「とても助かりました。これからはこういう仕事が来たら、全部、やってください。よろしくお願いします」

ガッシャーン、と大きな音を立てて人生という線路のポイントが切り替わるのがわかった。あ、きっとこれで大丈夫だ。もうあとは、だたただがんばればきっとうまくいく。何だかわからないけれど、神様ありがとう、と思った。

その日は、たぶん生まれて始めて、はっきり目に見えるかたちで人の役に立ち、褒めてもらえた日だった。何月何日かは忘れたけれど、ずっと忘れない大事な大事な日だ。

でも、この先にも大きな苦難が待っていることを私はまだ知らなかった。

―つづく―

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