思い出すことなど(23)

翻訳に関する思い出を「思い出すことなど」と題して、色々と書いていきます。順不同かもしれません(最初のうちは、以前、Webマガジンに書いたものの転載です)。

(前回の続き)

翻訳会社に就職して、すぐについたあだ名は「小僧」だった。当時26歳。年齢は立派な大人であるが、何しろ、高校生の時に小学生、大学生の時に中学生に間違えられた私である。当時はおそらく高校生くらいに見えただろう。ただ、いくら若く見えても、周囲が一目置いていたなら、こんな呼び方はされなかったはずだ。結局のところ、バカにされ、侮られていたのだ(侮る、という言葉が最も合っている気がする)。
侮られるのは腹が立つけれど、侮った相手を責めることはできない気もする。何しろ、その頃の私は誰もが侮って当然、という人間だったからだ。仕事は何をさせてもミスばかり。よくしゃべり、時々大きなことは言うが、実績は何もない。口ばっかりに見える。翻訳した文章を一行たりとも見たわけないのだが、「こんなやつにできるわけがない」と皆、思っていたと思う。態度にその気持が表れていた。見たこともないのに理不尽だとは思うが、仕方がないとも思う。こんなバカっぽい、あらばかりの人間を見て、翻訳のような難しい仕事ができると思う方が不思議である。一度、やらせてみて、できるかどうか確かめようという発想さえ湧かないだろう。俺たちがちゃんと鍛えてやれば、なんとかここの社員としては務まるかもしれないが、それも怪しい、翻訳なんて夢のまた夢、そう思っていた人ばかりだったに違いない。
私はいつもにこにこと朗らかだったから(いや、ほんとに)、周囲の人たちは安心して私のことをバカにし、からかっていた。しかし、私も一応、人間なので、侮られていれば、それはちゃんとわかるし、もちろん傷つく。でも、生来の性格のせいもあり、つい朗らかに愛想よくなるのだ。
おかしな話だ。なぜここまで落ちぶれてしまったのか。そつのない人間ではなかったけれど、それなりに長所もあったはず。ある面ではすごいね、できるね、と言われたこともあったはずだ。
しかし、人間とは恐ろしいもので、周囲が皆、ある人をバカだと思い、お前はバカだ、何もできない、と本人に言い続ければ、本当にそうなってしまう。それまでは知らなかったが、周囲の良い方の期待だけでなく、マイナスの期待にも人間は見事、応えてしまうのだということを私はこの時、思い知った。本当に私のやることなすことが、周囲の「こいつはダメだ」という評価を強化するようにはたらいていた。
こんなこともあった。とにかく翻訳力を向上させたくて必死だった私は、そのためにできそうなことを思いついたら何でもしていた。日本語の文章力が必要だと多くの人が言っていたから、文章力もつけなくちゃと思っていた。でも、具体的にどうすればいいのかはわからなかったから、とにかく本を読むことにした。他に何も思いつかなかったのだ。何もしないよりはいいだろうと思った。元々、本を読むのは好きだから、苦にはならない。何も意識しなくても読むことは読む。何を変えたかというと、具体的な量の目標を立てたのだ。少なくとも年に100冊は読むと決めた。そして自分が何をどれだけ読んだのか、きちんと記録をつけ始めた。100冊自体は大した量ではないけれど、その量を確実に読むには、どれを読むか迷っている場合ではない。手に触れた本はすぐに読み始める。まさに手当たり次第。
会社に行きながらだから、ぼーっとしていたらなかなか時間は取れない。使えそうな時間を必死で探した。行き帰りの電車は当然だ。次に目をつけたのは、営業で外回りをする時の電車の中。これはいい。昼間は朝夕より電車がすいている。ほぼ間違いなく座れるから、ゆっくりと本が読める。ここまではまあ、よかった。
一方向に走り始めると極端になるのが私の良いところでもあり、悪いところでもある。そのうち、もっと読む時間を増やせないか、と思うようになった。それで気づいたのは、東京の電車には、同じ場所に行くにもいくつものルートが考えられるということだ。たとえば、三鷹に行くとしたら、新宿から中央線、総武線に乗るのが普通だけれど、茅場町から東西線に乗っても行ける。会社は広尾にあったから、茅場町には一本で出られる。へー、楽だなと思ったが、私がもっと注目したのは所要時間だ。東西線を使う方がずっと「時間がかかる」。これはつまり、「本を読む時間が作れる」ということだ。こんなふうにして、まるで錬金術のように私は時間を増やしていった。急行と各停があったら迷わず各停だ。
我ながらうまいことやった、と満足していたら、そのうち会社の事務のお姉さんの一人が「夏目くん、移動に時間かかりすぎじゃない?」と言い始めた。私の出発時間と帰社時間をチェックしていたらしい。そして、交通費の請求書を見て、「なんでこんなルート使うの?」と言い出した。すぐにこの話は皆に伝わり、とんでもない奴だ、ということになった。わかっている。向こうが100%正しい。私には何の理もない。今、思えば、何しとんねん、という話である。でもね、その頃は必死だったんだ。何もサボろうとしたわけじゃない。目標があったんだ、何とかしてそれに近づこうとしただけだ。やり方はまずかったけど。まあ、本当に一事が万事、この調子。下手の考え休むに似たり、というが、私が努力をすればするほど、こいつはバカだ、という評価が定着していく。負のサイクルに完全に入り込んでしまっていた。抜け出す方法は何も思いつかなかった。自分自身でも俺は何の取り柄もないとんでもないバカモノなんじゃないか、と思い始めていた。

―つづく―

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