思い出すことなど(4)

翻訳に関する思い出を「思い出すことなど」と題して、色々と書いていきます。順不同かもしれません(最初のうちは、以前、Webマガジンに書いたものの転載です)。 

なんとかコンピュータ業界に就職した私だが、2ヶ月間の導入教育(というものがあったのだ。贅沢だね)にも身が入らず、ぼんやりと9時から5時まで過ごし寮の部屋へ帰る日々。寮は六畳一間に二人部屋だった。「元は三人部屋だったのが二人になったんだ。お前らは贅沢だ」などと言われ、さらにやる気を失う。あれは配属を前にした面接だったと思う。「なぜ、この会社を志望したの?」と問われた。もう入社済みなので「御社の活動にかねてより強い関心があり・・・」などともっともらしいことを言わなくていいと思い、極めて正直に「コンピュータがこの世で何より苦手なので、苦手を克服したら無敵になるかと思いまして・・・」などと答えた。「そんなんじゃ、君は苦労するね」と呆れ顔で言われてしまった。自動車教習所の一時間目で「こんなに向いていない人、はじめて見た」と言われた時にも見た顔だった。
6月になって配属されたのは、海外の企業に外注したシステムの検収を主な業務とする部署だった。扱うのはUNIX。パソコンも触ったことがないのに、いきなりメインフレームコンピュータを使うことになった。タンスのようなマシン。磁気テープがくるくる回っている。ハードディスクも小さな冷蔵庫くらいの大きさがあった。怖い…としか思わなかった。
なぜ、自分がそこに配属されたのか、その理由は間もなく明らかになる。海外とのやりとりが頻繁にあるのに、英語のできる人間が課長だけ、という状態だったのだ。課長が人事に「誰か英語のできる新人を」と要求して、私が選ばれたらしい。まさか英語「しか」できない人が来るとは思わなかっただろうが。ともかく課長は、英語を使う業務から自分はこれで解放されると考えたようだ。
何度か、開発を外注していたアメリカの会社から技術者が来た。そういう時は、出迎えから何から関連する仕事をするのはすべて私、ということになった。空港までは行かなかったと思うが、宿泊するホテルへの案内もした。そして、到着翌日からは、ずっとべったり影のようについて歩かなくてはいけない。その技術者(ブライアンという名前だった)が帰るまでは帰れない。要するに専属通訳としてついて回るのだ。先輩たちから、「お前がいなくなるとブライアンと話ができなくなるからずっといろよ」と言われていた。
何日かして、衝撃の瞬間が訪れた。マシンを見ながら話をするブライアンと先輩。懸命に通訳をする私。だが、途中から私は暇になった。なんと、通訳なしで話が通じているのだ。私が通訳をする前に先輩はブライアンの言うことを理解し、ブライアンもまた先輩の言うことを理解してしまう。先輩の英語力が急激に上がったわけでもブライアンが日本語を覚えたわけでもない。要するに、話すべき内容を熟知している人どうしだから、ちょっとしたキーワードを並べるだけで、言わんとしていることがわかるのだ。しかも、コンピュータのキーワードはすべて英語である。話している内容をさっぱり理解していない人間のヘタな通訳より、単語の羅列の方がわかりやすかったということだ。
この時の体験は、今も、毎日の仕事に活きていると思う。まずはあの単語の羅列よりましな仕事をすること、すべての話はそれからだ、と思っている。

-つづく

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