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ミステリーにおけるチェーホフの銃

作品を見る前と見た後で、人の考え方が180度変わることだってある

おはようございます、【チェーホフの銃】肯定派のDNFです。

差別問題を語るに当たって、"チェーホフの銃問題"というのがあります。

この言葉の意味は「例えば演劇の舞台で、意味ありげに銃を舞台に設置した。そうしたらその銃は舞台のどこかの場面で必ず発砲されなければいけない」というような意味です。
いわゆる【伏線は消化されなければいけない】といった作り手の技法であったりマナーといったものを表現した言葉です。

ところがこの技法には一つの問題点があります。私が今述べたように「意味ありげに……」というのが重要で、その装置は【違和感があるもの】でなければいけません。


作品の実写化において「○○役を演じたのが黒人である」というのが昔からたまに問題になります。【原作の設定を無視して肌の黒い人物を採用した】という点から、ファンの反感を買い、【チェーホフの銃】的に説明するならば「違和感が凄いがそれが払拭される事のない舞台装置になっていることが問題である」ということです。

対して、それを差別だと解釈する声があります。【チェーホフの銃】即ち【そもそも黒人の存在に違和感があると思うことが人種差別である】という論調です。

さらにこれに対してのファンの反論は【設定を無視しているから批判しているのであり、人種をそもそも気にしていない。わざわざ「黒人だから差別されている」などと『批判への違和感』を感じている方こそ差別である】となっています。

このようにどちらも冷めやらぬ差別への議論にも、"チェーホフの銃問題"というのは絡んできます。

さて、今回は「そもそも差別問題と結びつけずに考えた場合の【チェーホフの銃】とは?」という話をしたいと思います。

私は肯定派

差別の話を完全に忘れてください。

この記事では【ミステリー】という作品の技法としての【チェーホフの銃】について語っていきます。

私は昔、とある【ミステリー】のドラマCDを聞いていました。密室で背中に多数の切り傷を受け死亡する被害者が登場し、一体どんなトリックなんだろうとワクワク推理しながら聞いていました。

結果:なんか凄い未知のウィルスの仕業でした。

ふざけんな!!!!!とCDを叩き割る勢いでガッカリしました。

【チェーホフの銃】における違和感の払拭、という問題に対して、【ミステリー】では求められるものがさらに厳しくなります。それは読み手が推理役となることを前提として『推理可能である、納得できるフェアな設定』を求めるからなのです。

それを明文化したものが【ノックスの十戒】【ヴァン・ダインの二十則】というものです。


【ミステリー】の作り手に課せられたルール、もしくは不文律のマナーといった位置づけのものです。言い換えると"お約束"というやつでしょうか。

「納得は全てにおいて優先するぜ!」なんて漫画のセリフがあるように、私は物語に納得できるかを求めますし、みんなそれぞれ無意識のうちに「納得できるかどうか」で作品の評価を判定していると思っています。

そう、違和感は必ず"納得"で払拭されなければいけない、だから【チェーホフの銃】はとても大事なのです。

チェーホフの銃の弱点

私は以前、とあるオンラインゲームに実装された「推理物語のイベント」をやっていました。面白そうな企画だなあと思い、先にプレイしていた親友レックナート氏に「どうだった?」と聞いたところ、このような回答が帰ってきました。

「たぶん君なら事件が始まる前に犯人が分かると思う」

実際にやってみました。

本当だよ。

事件が始まる前に犯人が、何が証拠になるかも事件前に判明しました。

その犯人は"左利き"でした。

本格的なミステリー小説ならイザ知らず、ビジュアル化した漫画やアニメのライトなミステリー作品では「ちらっと左利きを映す」事が伏線であり回収されるべき証拠であり、"左利きの人間が犯人である"というのがお約束ごとになっており【チェーホフの銃】として守られているのです。

漫画「あやつり左近」でも、左利きの人間が犯人である回答話の直前で、全登場人物の利き手が判別できる絵が描かれていました。
コナンの映画「瞳の暗殺者」でも右利きを装っていた人物が電話を取るときだけ左利きになっており、その場面ではコナンが怪しさに気づくいつもの表情をしていました。

さてはて、何はともあれこの【チェーホフの銃】のおかげで"左利きが序盤に登場しただけで犯人が判明してしまい全く話にワクワクできなかった"という結果になりました。

【ミステリー】に限らず【チェーホフの銃】のような"お約束"事手法というのはよくあります。
【ホラー】では、最初にグループから外れようとする人間が最初の犠牲者になるのはお約束ですよね。また、映画では子供が死ぬことはなかなか無いというのもほぼ決まりですね(ポリコレの観点から)。
漫画等では「この展開はこいつが死ぬ」「この展開はこいつが仲間になる」といいった【フラグ回収】と呼ばれるような"お約束"展開もあります。

いずれも、こういった"お約束"展開というのは先が読める予定調和であって【王道作品】として楽しまれる一方、ある程度型が狭まってしまうという側面もあるのです。

しかし、【王道】があれば【邪道】もあります。

【ミステリー】には【叙述トリック】という手法があります。嘘は付かずギリギリの騙しのテクニックで読者をミスリードさせる手法です。
この手法は推理作家のヴァンダイン氏が当時"アンフェアだ"と強く否定していたそうで、だからこそ【ヴァンダイン二十則】を作ったとも言われています。

私が初めて【叙述トリック】に触れた作品といえば、モーリス・ルブランによる『怪盗紳士』(1907年)――有名なルパンの作品で体験しました。
(叙述トリック自体の歴史は実際にはもっと深く、イズレイル・ザングウィル作『ビッグ・ボウの殺人』(1892年)が、叙述トリックの使われた最も古い作品だと言われています)

ルパンの作品を皆様にもオススメしたく、小説なんて読みたくないという方には漫画も出ています。初期作の部分は動画化もされていますので宜しければご覧ください↓ 

ルパン帝国再誕計画/合同会社エギーユ・クルーズ 様のサウンド図書館


【叙述トリック】の面白さといえばなんといっても、予想が付かないこと。

しかし予想の付かないことをやるには、今までのお約束ともいうべき【チェーホフの銃】という殻を破らなければいけないのです。

既存のマナーやルールに縛られていては新しい発見などあるわけありません。

やがてチェーホフの銃になる

【叙述トリック】をもっともメジャーにしたものは、私見ですがアガサ・クリスティー作『アクロイド殺し』(1926年)だと思われます。

先ほど話に出したヴァン・ダイン然り、日本でも江戸川乱歩や小林秀雄、横溝正史等がフェアかアンフェアか議論を行っていました。

↑※リンクでフェアアンフェア論争の項目へ飛びます

結論としては「アンフェアかもしれない。しかしフェアかアンフェアか~ではなく面白いからいい!」というのが全体を見た雑感です。

そう、面白いだから叙述トリックは流行りました。

昔はフェアかアンフェアか……なんて敏感に論争されていたものが、現代ではすっかり受け入れられ「へー叙述トリックか、面白いね」と気軽に認識されて希少なものではなくなっています。最近はアニメでも多いですね。

かつては【邪道】とされていた【叙述トリック】も、いつか"お約束事"として【チェーホフの銃】に当てはまってしまうのかもしれません。

革新的なものを生み出すために


【チェーホフの銃】"解決されるべき違和感であり、それが解決されることで納得感を産み出す"技法です。

"納得"されればされるほど、それは【王道】として目新しいものではなくなってしまうのです。

面白いものを追求し、新しいものを生み出すために必要なのは、枠に囚われずに常に新しい可能性を模索し続ける探求的な姿勢であるのでしょう。

だから"チェーホフの銃は否定されるべき"なのです。



最後に冒頭を振り返ってからツイッターのフォローをお願いします!

@P_drenreb


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