登場人物による文明批評やインテリ談義を楽しむ本。しかし過剰な露悪趣味には少々辟易:ウエルベック『服従』

 浅田彰の書評などで元々興味があったため手に取った。主人公は近代文学の研究者であり、無気力なノンポリ中年独身男であり、女子学生を食い物にしているが性生活に行き詰まりを感じている。本作では、イスラム化という社会的変化と、それに伴って変化していく主人公の生活や、研究対象としているジョリス=カル ル・ユイスマンスという作家をめぐる思索などが、並行して語られていく。
 作家、政治家、ジャーナリストといった固有名詞が実名で大量に出てくるが、その辺りが十分に楽しめなかったのは残念。大量の注によって補われているため、一応の理解はできる。しかし、フランスの歴史や政治・社会・文化等々について、最低限の知識がないとそれでも難しいと思われる。
 というのは、本作はウエルベックの既刊同様、社会学的分析や文明批評が数多く登場し、近代化(世俗化)の成れの果てを、その象徴的存在としての「知的な俗物」とも言うべき男性主人公の眼から描いているからだ。そのため、例えば、フランス革命の世界史・思想史的意義などは踏まえておく必要があるだろう。本作では、世俗化や個人的自由を推し進めたヨーロッパ先進国を、イスラム教という対照的存在によって捉え直すところに主眼が置かれている。

 したがって本作の楽しみは、小説の自由度の高さを利用した諸々の知的遊戯や思考実験にある。つまり、政治経済・社会・文学・歴史等々をめぐる知的会話が楽しいのであって、ストーリーは私が知っている他の作品より地味である。
 もちろん、一番力が入っているのは、フランスのイスラム化をいかに説得的に描写するか。現実政治面では、諸勢力間の政治力学や仏版「ムスリム同胞団」党首の政治家としての才覚、政策の優位性などが描かれる。
 もうひとつは、イスラムの教義の正当化である。とりわけ資本主義の安泰を大前提にしつつ、イスラム教をそれにすり合わせるのが興味深かった。本作では、イスラム教が一方ではネオコン的家族主義を、他方ではネオリベ的格差社会を肯定することが、フィクションとは思えない説得力をもって示されている。なんと、本作で描かれるイスラム教はネオコン‐ネオリベと親和的なのだ。しかし、保守主義という点では似通った主張を掲げるナショナリストの脱EU路線が、政治経済的に不利な結果をもたらすことは明白だ。対して、ムスリム同胞団のEU拡大路線は有望である。イスラム化したフランスが地中海沿岸イスラム諸国をEUに取り込もうとするのは、なるほどありそうな政策だ。
 イスラム教をめぐる様々な思考実験は新鮮であるだけでなく、この大風呂敷を無理なく広げてみせる作者の知性と博学にはやはり感服した。文学から現実政治まで何でも自在に語ってみせる作者からは、(作中では存在価値を完全に否定されている)「知識人」なる存在の凄さを見せつけられた。もっとも、大量の固有名詞を登場させ、教養・知識を見せびらかすことで、その無意味さが露わになるのだが。しかし、今日における人文社会的教養の空疎さを殊更あげつらうことが作者の狙いなのではなく、その事実は織り込み済みで、それでもなお教養や知識へのフェティシズム的愛着、上等な食事とともに交わされる知的会話が醸し出すムードへの耽溺が表明されているように読めた。そうすると、本作のシニシズムは挑発や、まして批判などというものではなく、逆に「居直る」ためのシニシズムと言えよう。

 とまぁ、こういうラフな知的遊戯が好きな人なら楽しめると思う。
 しかし、登場人物が進化論を使って一夫多妻制を擁護したり、10代の少女達を妻としてはべらせるムスリムに主人公が羨望を抱くなど、過剰なセクシズムをこれでもかと開示していくスタイルにはさすがに辟易した。これもまた、男女の力関係の現実への「居直り」なのだろうか。
 評者は『素粒子』『ある島の可能性』しかまだ読んでいないものの、その限りでは、本作はこれら2作の延長線上にあるように思われた。やはり主題は近代文明の行き詰まりであり、その中での居心地悪さ・生きづらさである。しかし、これら2作では、こうした主題が饒舌に描かれていたのに対し、『服従』では最大の持ち味であるその辺りが薄味になっている。そこで、作者の問題意識を知るために、先にどちらかを読んでおいた方がいいと思う。
 
 
 さて、レビューは以上として、ここからはもう少し突っ込んだ感想を書き残しておきたい。核心部のネタバレは避けた。
『素粒子』『ある島の可能性』と『服従』は、同様の問題意識で書かれている。しかし問題解決は真逆である。前二作では、サイエンス・フィクション的な方向がとられている。しかし、『素粒子』の最後は唐突なうえに具体的描写がなく、説得力がない。そして『ある島の可能性』の結末をみるに、こうしたポスト・ヒューマニズムな解決法はウエルベックの中で棄却されたと思われる。また、科学技術の進歩に頼るという点でも、その思想的含意においても、むしろ近代化を極端に推し進める思考実験によって導き出された結論であったと言えよう。
 代わって本作で提示されるのが、イスラム化による一夫多妻制という保守反動的な方向性であり、高等教育と経済活動からの女性の追放、エリート主義、社会保障の削減である。実のところ、イスラムが主人公を惹きつけるのも、一夫多妻制にほかならない。「料理には四十代の妻を、 他のことのためには十五歳の妻を……」というわけである。教授職に戻るには帰依しなくてはならないが、当然主人公には強い抵抗感があるし、さらに、ユイスマンスが後にカトリックに改宗したことが彼の心に引っかかっているのだが……
 さて、あのフランスで一夫多妻制が合法化となると当然黙っていないはずのフェミニズムだが、ほとんど無視されている。というか、女性がある意味で徹底的に存在を無視されている、と言ってよい。この徹底性は、言葉の剥奪として端的に表れている。ある時点から、ある人物を除いては、女性に全くセリフが与えられていないのである……。この点を注意しながら読んでみてほしい。
 実のところ『素粒子』や『ある島の可能性』でも、セクシズムはかなり露骨だったと言える。例えば、『ある島の可能性』では、快楽主義と商業主義に煽られて高まったナルシシズムのせいで、美貌が損なわれた女性は自殺を選ぶようになったとされている(男性は勃起できなくなった時点で自殺する)。こういった設定もしかし、消費社会、個人主義、ナルシシズム、競争といった現代先進国の状況に対する批判として、まァ読めなくもないものだった。
 だが、『服従』からはそういったものを微塵も感じないどころか、「若い娘がいいに決まってる」という開き直り、さらにセクシズムの自然化が跋扈している。この開き直りについては、ウエルベックの作品から貧困というテーマが排除されており、主人公はじめ基本的に上流階級の物語であることとも関係している。

 実際、一夫多妻制は、貧富の格差が拡大していく社会ではむしろ合理的と考えられないだろうか(あるいは昨今多い「年の差婚」に、経済的事情が関わっていないと誰が断言できようか)。アナルコ・キャピタリズムでは婚姻制度自体が破棄されるが、それでも自由放任の帰結がwinner takes allであるなら、結局は一夫多妻がもたらされるだろう……。結局、資本主義という近代的制度が世界を統べる唯一の原理になったら、他のさまざまな領域においてはむしろ近代化の後退が起こっている、ということなのだ。
 ウエルベックがナショナリズムに関心をもたず、国民戦線を心底馬鹿にしていることは疑いようがない。他方で彼は、近~現代リベラルの価値観にも絶望している(というか、ナショナリズムも近代の価値観だ)。しかし、共産主義以降、資本主義のオルタナティブは一向に見当たらない。というより作者は、資本主義の悪影響の文化的・精神的側面は徹底的に嘆くものの、経済的不平等の拡大と固定化には大して関心を払わないし、本作ではむしろ肯定的であるようだ。こうしたなか、本作にとってイスラム教は、資本主義との矛盾は最小限に、ナショナリズムを回避しながら、かつ他の点ではコンサバティブな価値観を擁護してくれる、最高の解決策として提示されている。もちろんイスラム教徒の女性は「自立性を失っているのだが、自立性などくそくらえだ」というわけである。「自由な個人」たることを万人に強制する資本主義が、逆に自由という近代的価値に対する嫌悪をもたらすのだ。
 もちろん、本気でイスラム教を擁護しているわけではなく、露悪趣味や炎上商法のようなもんと言える。しかし、突きつけられる現実はあまりに過酷だ。そういうわけで、むき出しのセクシズムと相まって、これまで以上に暗い気持ちにさせられる読書であった。と同時に、この作家の底も見えたように思う。彼のシニシズムが知的挑発なのか、はたまた経済的勝者の居直りなのかは、実のところ大した問題ではない。シニシズムは元よりワンパターンであり、ましてそれがはびこる時代にあっては、いよいよ陳腐で退屈なものに感じられてしまう。
 ついでながら、現代日本の惨憺たるリベラルの現状には、ウエルベック流の容赦ない攻撃は「死体蹴り」にしかならないに違いない……。

■追記
 上記の感想では、本作を完全なアンチ・フェミニズムの書と捉えたが、少々考えが変わった。いくつかの記述から、ウエルベックのアンビバレンツを読み取ることが可能なように見える。まず、旧時代(1968年以前)に属する者として登場する女性がおり、彼女からは言葉が奪われていない。次に、最後に付き合っていたユダヤ人の女学生との別れに対する主人公の独白。そして、イスラム化した新ソルボンヌ大学の開校パーティの描写である。パーティーが成功していないという印象を抱いた主人公は、すぐにその理由に気づく。「開場には男性しかいなかったのだ。一人たりとも女性は招待されておらず、女性が不在なまま、何とか社会生活をまわして維持することは(略)大学の文脈では適切ではない――勝つのが難しい賭けだった」。
 しかし、この下りはあくまで男目線から「女は社交の場に必要だ」と言っているように読め、やはりフェミニストを納得させるには至らないだろう。2人の女性のあり方にしても、「とうに終わってしまったもの」そして「失敗を運命づけられているもの」として追悼されていると捉えた方が適切であるように思われる。全体として悲観主義なことに変わりはない。
 とはいえ、やはり一種の敬意が払われているのも確かである。フェミニズムにかぎらず、近代史の成果に対するアンビバレンツはあらゆる面においてウエルベックに一貫しており、それが本作をはじめ彼の小説を曖昧にしている。

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