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【鉄分補給】朝ドラの主題歌は鉄道唱歌で!(続・新幹線の父 十河信二と妻キクの物語を朝ドラに!)

少し前の記事『新幹線の父 十河信二と妻キクの物語を朝ドラに!』で新居浜市と西条市(愛媛県)が朝ドラ誘致活動『(第4代国鉄総裁)十河信二と妻キクの物語を朝ドラに!』を展開していることを紹介しました。

十河信二・キク夫妻を主人公とする朝ドラ誘致の署名フォーム

朝ドラは2~3作先まで決まっているようですし、地方自治体間の競争も熾烈で、実現する可能性は僅少ですが

十河信二・キク夫妻の物語が朝ドラで取り上げられる幸運に恵まれることがあれば、所謂、鉄道唱歌(地理教育 鐵道唱歌 第一集 東海道)を主題歌として採用すれば、愛媛県(宇和島市)を訪れる観光客が多少増えるかもしれません。

鉄道唱歌の1番に唄われた新橋駅(汐留口)には、D51機関車の動輪の隣に鉄道唱歌の碑が建てられていることはよく知られています。(時系列に従えば、1957年に鉄道唱歌の碑が建てられ、その後、1965年にD51機関車の動輪が置かれました。)

(前略)

歌碑の上には、わが国で最初に走った車両である第1号機関車のレプリカをのせた(傍らのD51形蒸気機関車の動輪は昭和40年8月設置)。そして碑面の上部には「鉄道唱歌の碑」の横文字を彫り、中央には大和田建樹本人直筆の鉄道唱歌の一節を銅板に刻み込んだ。下部には、鉄道唱歌の歌詞をすべて諳んじていたといわれる、建樹と同じ愛媛出身の元文部大臣・安倍能成が筆を執り、建立の趣旨をこう書いた。

「鉄道唱歌の作者大和田建樹先生は、安政四(一八五七)年四月廿九日愛媛県宇和島に生まる。幼少国文に親しみ、十五歳以後特に国学に志した。明治七年十八歳の秋上京游学、十七年東京大学講師、翌年高等師範学校教授、廿四年辞任。爾来又官仕せず、門を開いて歌文を教え地方に出講し、行余謡曲能舞を嗜む。

学は漢洋に亘り、著述は辞典・注釈・詩歌・随筆等百五十冊を越えたが、卅三年、鉄道唱歌東海道、山陽九州、奥州線磐城線、北陸地方、関西参宮南海各線の五冊を連刊し、就中「汽笛一声新橋を」の一句に始まる東海道の部は普く世に流布して津々浦々に歌われ、鉄道交通の普及宣伝に絶大の貢献をなした。

先生、明治四十三年十月一日に歿す。享年五十四。今年恰も生誕百年に当って、先生の遺弟・待宵舎同人の発起により、東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋駅構内に碑を建て、永く先生を記念する。」

(後略)

中村建治 著「鉄道唱歌」の謎(交通新聞社新書)
鉄道唱歌の碑
汽笛一声しんばしを はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として
中村建治 著「鉄道唱歌」の謎(交通新聞社新書)
新橋駅
説明パネル

然しながら、鉄道唱歌の作者(作詞者)大和田建樹(おおわだたけき)の故郷である宇和島のJR駅前に詞碑が建てられていることはあまり知られていません。詞碑には(前述の新橋駅の鉄道唱歌の碑と同様に)鉄道唱歌の歌詞「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」も刻まれています。

宇和島駅と大和田建樹詩碑

(前略)

一方、建樹の碑は、出身地である愛媛県宇和島にもある。

宇和島駅は大正3(1914)年10月に、私設鉄道「宇和島鉄道」によって軽便鉄道で開業された。ドイツ・コッペル社のC形タンク機関車が客貨車を引いて走ったが、鉄道唱歌誕生100周年と宇和島城築城400年祭を記念して、平成12(2000)年5月にはその車両レプリカが駅前に復元された。機関車レプリカのすぐ脇には、宇和島ライオンズクラブが音頭をとり、愛媛県や同県宇和島にゆかりのある人々が協力して昭和40(1965)年10月に建立した、大和田建樹の四角い詩碑が見える。駅前の水面に浮かんだように立つ碑は、タテ・ヨコ約2メートル、高さ約1・3メートルという立派なものだ。

大理石碑の南面の題字「大和田建樹詩碑」の文字は、「新幹線の父」といわれた同県新居浜出身の十河信二(明治17(1884)年生まれの当時81歳。元・国鉄総裁)が書いた。夢の超特急と言われた東海道新幹線を完成させながら、開業直前に辞任したという逸話を持つあの十河である。

碑の西面には、『鉄道唱歌・東海道篇』の1番の歌詞、東面には『散歩唱歌・秋』(明治34年7月発表)を刻み込んだ。いずれも、建樹が多梅稚と組んで大ヒットさせた唱歌である。唱歌の書は十河と同じ新居浜出身で、新橋駅前の「鉄道唱歌の碑」も書いた安倍能成が筆を執った。一方、碑の設計は両親が宇和島出身という当時東京工業大学教授だった清家清(大正7年、京都生まれの当時47歳)が担当した。

碑文には、こう書かれている。

「大和田建樹は安政四年(一八五七)、宇和島丸之内藩士の家に生れた。

少年時代藩校に入って国学・漢学を学びのち広島に遊学して英学を修めたが、早くから秀才のきこえ高く十四歳にして既に藩公の前で四書の進講をした。二十二歳のとき上京して、更に国文学の研究を重ね東京大学講師、高等師範学校教授の職を務めた。

中年以降は専ら著作にたずさわって謡曲通解日本大辞典等、幾多の名著を著し中央文壇に名声を博した。その生涯を通して書き続けた文学書・歌集・紀行文の数は百余巻におよび、明治文学史上に多彩の業績を残したが、一面優雅流麗な唱歌作詞もまた多くなりしも、鉄道唱歌・散歩唱歌・故郷の空などは、ひろく学童の間にうたわれて、当時は老若ひとしく愛唱、全国を風靡した観があった。これらの歌詞は今なお国民大衆に親しまれている。

明治四十三年(一九一〇)五十三歳で没した。」

除幕式は10月10日に宇和島児童合唱団が歌う鉄道唱歌の中、建樹の遺族で孫の大和田圀秀氏やひ孫の房江ちゃん、当時の国鉄四国支社長らが参列して挙行された。

(後略)

中村建治 著「鉄道唱歌」の謎(交通新聞社新書)

大和田建樹(1857~1910)

国文学者。歌人。詩人。宇和島城下(現、宇和島市)出身。宇和島藩の藩校・明倫館を経て広島外国語学校で英語を学び、後に東京大学や私立学校などの講師を務めた。その後、和歌・謡曲・国文学などに関する著作を多数発表するとともに、唱歌の作詞にも多く携わった。特に、「汽笛一声新橋を・・・」の歌い出しに始まる「地理教育鉄道唱歌」は有名で、全国的に歌われた。また、能の研究家としても、謡曲文の注解・研究の重要性を世に知らしめた。

(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

大和田建樹詩碑

大和田建樹は1857年に宇和島で生まれた。幼少の頃から神童として知られており、14歳の時には藩公に四書を請進した。その後、広島外国語学校で英語を学び、1879年には東大の講師、1886年には高等師範学校教授となった。1891年に教授の職を辞し、文筆家になった。

1900年に発表された「鉄道唱歌」は第1集東海道編(66番)、第2集山陽・九州編(68番)、第3集奥州・磐城編(64番)、第4集北陸編(72番)、第5集関西・参宮・南海編(64番)、第6集北海道編(40番)の6冊に分かれており、全部で374番まである。

宇和島駅前に建てられたこの碑は四角形で南面には大和田建樹詩碑、東面には散歩唱歌の秋10番、西面には鉄道唱歌の1番、北面には大和田建樹の略史が刻まれている。大和田建樹の歌碑はこの宇和島駅前のものの他に、新橋駅前にも建てられている。

基本情報

所 在 地 : 宇和島市錦町 宇和島駅前
MapCode : 176 188 551*57
建 立 日 : 1965年10月
建 立 者 : ---
種 別 : 歌碑

碑 文

南面

大和田建樹詩碑

東面

わがふる里の城山に 父と登りてながめたる
入江の波の夕けしき 忘れぬ影は今もなを

北面

大和田建樹は安政四年(一八五七)宇和島丸之内藩士の家に生まれた少年時代藩校に入って国学漢学を学びのち広島に遊学して英学を修めたが早くから秀才のきこえ高く十四歳にして既に藩公の前で四書の進講をした二十二歳のとき上京して更に国文学の研究を重ね東京大学講師高等師範学校教授の職を勤めた中年以降は専ら著作にたずさわって謡曲通解日本大辞典等幾多の名著を出し中央文壇に名声を博したその生涯を通じて書き続けた文学書歌集紀行文の数は百余巻におよび明治文学史上に多彩の業績を残したが一面優雅流麗な唱歌作品もまた多くなかにも鉄道唱歌散歩唱歌故郷の空などはひろく学童の間にうたわれて当時は老若ひとしく愛唱全国を風靡した観があったこれらの歌詞は今なお国民大衆に親しまれている

明治四十三年(一九一〇)五三歳で没した

昭和四十年十月
 設 計  清家 清   題 字 十河 信二
 唱歌揮毫 安倍 能成  撰併書 高畠 龍太郎

西面

汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として

詞碑から少し離れた場所には宇和島鉄道1号形蒸気機関車(レプリカ)が置かれています。説明パネルの黄色のボタンを押すと鉄道唱歌のメロディーが流れます。


以上、捕らぬ狸の皮算用ですが...



新・鉄道唱歌 谷川 俊太郎

汽笛もなしに東京を
はや我特急は離れたり
予算の山に入りのこる
八百億を友として

はるかにみえし富士の嶺は
はや我そばを遠ざかる
心もはやるバカンスの
時速は二百有余粁(キロ)

おもえば夢か時のまに
五十三次はしりきて
ゆっくりごろねできるのも
金で時買う汽車の恩

天声人語 2014年10月1日(水)

♪汽笛一声新橋を……で始まる「鉄道唱歌」はよく知られている。それをもじって、詩人の谷川俊太郎さんが「新・鉄道唱歌」を作ったのは新幹線の開業前のことだ。夢の超特急をユーモアと風刺で包んだ落首(らくしゅ)、つまり戯(ざ)れ歌である

歌い出しは「汽笛もなしに東京を はや我(わが)特急は離れたり 予算の山に入りのこる 八百億を友として」。八百億とは報じられた予算超過額である。そして2節目は「はるかにみえし富士の嶺(ね)は はや我そばを遠ざかる 心もはやるバカンスの 時速は二百有余粁(キロ)」と続く

鉄道唱歌の「東海道編」は新橋から神戸まで、沿線の地理歴史を歌い込んで66番まである。これに対し谷川版はたった3節。超特急らしく、あっという間に終点に着く。歌の短さも風刺のうちだったろうか

東海道新幹線が開業して、今日で50年になる。この間に約56億人を運んだという。開業前は東京―大阪間に6時間半を要した。短縮した時間の膨大な累計に、「時は金なり」の格言も脱帽だろう

列車名の「ひかり」は一般募集で最も多かった。「こだま」は10位だったが東海道線の特急名に以前からあり、光と音の組み合わせの妙で名づけられたそうだ。名コンビに時速270キロの「のぞみ」が加わって、22年たつ

幾万の商機を実らせ、遠距離の恋を取り持ち、帰省の孫を祖父母に届けてきた。ありがとうは尽きないが、競うような速さよりむしろ確かな安全で応え続けてほしい。時間よりも「無事は宝なり」である

(前略)

当初1,725億円の工事費見積額に金利分247億円を加え、1,972億と予定していた建設費は、路線延長の増大、地元の要求による盛土から高架橋への変更、その他の理由で、38年2月(1963)には2,926億円に変更しなければならなくなった。

用地費で364億円、工事費438億円という著しい差を生じ、954億円という50%に近い不足額であった。

これらの資金は国鉄が政府・民間から資金を借入れ、完成後に新幹線の収益から償還する計画であり、一部8,000万ドル(288億円)は36年5月(1961)、20年償還、年利5.75%とし、橋梁・車両は国際入札とするという条件で世界銀行から借入にも成功していた。

世界銀行が鉄道建設資金を貸出した例は珍しいことであり、新幹線建設事業の有望を世界的に裏書したものであった。

欧米メーカーは一時、車両の国際入札に関心を持ったが、国内メーカーの連合の敵ではないとみたのか、いずれにも参加しなかった。

このような経過もあり、予算の追加も承認されたが、5月になると、なお874億円不足し、総額3,800億円を必要とするようになった。

工事費だけで720億不足であった。十河は全責任を取って総裁を辞した。


予算は追加され、工事は続行し、39年3月(1964)からは電車も続々と品川・鳥飼基地に搬入された。

昭和39年7月1日全線の工事が完成した。

(後略)


伊予鉄道は、日本の私鉄の中でも珍しく鉄道唱歌を持っています。作られたのは、創業20周年を迎えた明治41年の秋です。鉄道唱歌の作者で有名な大和田建樹氏が、愛媛県の宇和島出身であったこともあり、作詞を手掛けました。歌詞では松山を中心に伊予鉄道の沿線が広範囲に紹介されております。

唱歌は25番までありますが、現在、会社行事などの際に出席者により歌われるのは1・2・6番です。


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