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『シン』鑑賞後のもやもやを晴らすべく、我々は青森の奥地に向かった・・・

『シン・エヴァンゲリオン』を初日鑑賞しました。感動しました。感動したはずなのに、その後1週間ずっとモヤモヤし続けています。

なぜモヤモヤしているのか、あらゆる考察や感想を読み漁ったもののいまいち腑に落ちることはありませんでした。感動したのも事実であり、全面disお気持ち感想に同調できるわけでもなく。しかし全身全霊楽しかったです!と言われても何かが引っかかる・・・

その疑念を晴らすべく青森県立美術館で開催されている『富野由悠季の世界』に行ってきました。青森開催が延期になって約一年、期待しすぎたあまり会場で各展示物をじっくり見過ぎてしまい全部見終わるのに1.5日かかりました。ちなみに奥地と言いましたが東北自動車道終端から5分の好立地です。

なんとなくそのモヤが実体化したような気がするので、つらつらと書きます。

エヴァンゲリオン作劇の魅力

わかりにくい設定+わかりやすいキャラクター

これが最も単純化したエヴァの魅力です。(怒られそう)

エヴァンゲリオン・使徒・ゼーレ・死海文書・セカンドインパクト・・・様々な専門用語が飛び交い、また十分な説明がされないまま話が進んでいきます。視聴者はそれらのワードについて謎解きをすることでこの作品を楽しんでいきます。
”新劇場版”ではさらに追加されたワード・意味が変化したワードについて考察し、『シン』においてほぼすべての説明が果たされました。(”アダムス”についてはシン・ウルトラマンAの制作を待ちましょう)

それに反してキャラクターは非常にわかりやすく作劇されていきます。(もっと怒られそう)
彼らの動機や行動原理は作中でアイコニックな台詞回しと美麗な映像演出をもって巧みに表現されます。根暗なキャラは多くても、感情がわからないキャラが登場しない事が、このアニメの視聴しやすさを生み出しています。

唯一感情がわからないのが碇ゲンドウであり、碇ゲンドウの行動原理は設定の根幹と同一化しています。碇ゲンドウの正体を知るために設定を考察し、設定が明らかになるにつれて碇ゲンドウの目的が見えてくる・・・という碇ゲンドウを中心とした永久機関がエヴァンゲリオンの魅力の中心にあり、このエンジンをスムーズに回すために周りのキャラクターはわかりやすくある必要があるのです。

『シン』の結末は長らくエヴァ考察をしてきたファンにとっては予定調和でしたが、碇ゲンドウの”ジョハリの窓”すべてを開放することがエヴァの完結と同義であり、『旧劇』では唯一開けられなかった窓がようやく『シン』にて開放された、と受け止めるべきでしょう。

SFの王道手法

こういった”わかりにくい設定+わかりやすいキャラクター”という舞台を”謎多き人物”を中心に回す構造はSF作品の王道手法です。『ゴジラ』から『STAR WARS』まであらゆる作品で用いられ、碇ゲンドウはゴジラでありダース・ベイダーでもある。

しかしこの構造はバランスを失うと途端にチープになってしまう。所謂”説明台詞が長い”などはその一例でしょう。“ニチアサ”等の東映特撮は逆にそのチープさを長年かけて魅力として昇華していますし、時として「大人向けすぎる!」と話題になるニチアサ作品には、タイムファイヤー・桜井侑斗・キュアムーンライトのようなキャラが”碇ゲンドウ“として活躍する。(ゲンドウがエヴァパイロットになるのは様式美的にも自明であります。)

そして庵野監督はこの手法を生かす天才である。絶妙なバランス感覚をもってチープにならないギリギリのラインでストーリーを盛り上げ、感情の昂りが頂点に達した時、伏線回収と斬新な映像美をもって強烈なカタルシスを演出してくれる。

庵野監督を心配してみる

”得意なこと”と”やりたいこと”はえてして合致しないものです。多くの商業芸術家がその板挟みにあい、苦しんでいます。

”得意なこと”が導く先に、未知への挑戦は存在しません。本質的に求道者たる芸術家は、手前味噌で済ませる自分と分裂を起こしてしまいます。挑戦的作品と商業的需要に折り合いがつけばいいのですが・・・

庵野監督にとって挑戦的作品となったのが『エヴァ』TVシリーズ後半、『旧劇』そして『Q』であることは言うまでもないでしょう。特に『Q』はこれまでの手法とは一転して、キャラクターが”わかりにくい”行動と発言を取ります。この挑戦は商業的には成功したかもしれませんが世間的に受け入れられたかというと・・・

挑戦の代償がとても大きいものであったことは各所で語られています。

『シン』では一転して元の構図”わかりにくい設定+わかりやすいキャラクター”に回帰し、すべてのエヴァンゲリオンが清算されました。

富野監督の作家性

そろそろ『富野由悠季の世界』の話をします。

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”富野アニメ”の魅力といえば他のSF映像作品にはない見られない構造、

わかりやすいキャラクター+わかりにくい設定

と言えるでしょう。わかりにくいものとわかりにくいものが交錯していくストーリーを前に、視聴者に考察させることが多くなるわけです。特にキャラクターが感情や立場を二転三転させるため、良く言えば素晴らしい偶像劇、悪く言えばサイコパスアニメになってしまいます。

しかしこの複雑な構成を、映像の魔術をもって直感的に理解させるのが”富野アニメ”の魅力です。

ガンダムについては理系も文系もいっしょくたにしてわからせる、という作品にしたかったんです。だけどやはりそれができていないんだよね。(中略)工学系の趣向性を持った人たちにとっては非常に興味の深いものなんだろうけど、その人たちがガンダムの物語を観ているかと言うと、ほとんど観ていないんですよね。ー『富野由悠季の世界』パンフレットより引用

『富野由悠季の世界』は開催地6会場の学芸員の方が総力を尽くして集められた展示の圧倒的物量によって、富野監督という人が持つ作家性を読み解いていく展示会です。(僕のような国語ができなくて理系に進んだようなポンコツでも、物量をもって作品達の深層をわからされる展示でした。)

この”わかりにくい&わかりにくい”を直感的に理解させるバランス感覚が何からもたらされたのか。

富野監督が演出する”余白”

”余白”を作るのが抜群にうまいのが富野監督の才能と言えるのではないでしょうか。

それは単に演出や脚本上の余白だけでなく、設定やコンテ・美術の指示に至るまで、絶妙な”説明不足“をもって受け取り手の想像を掻き立てます。

「これはこういうものだからこうやれ、と全部説明していたらそれは創作じゃなくて作業になる」「わからないものを作るから創作だ!」ともいわれました。
ー『G-レコ I』演出 吉沢俊一インタビュー

この説明不足に掻き立てられた”創造力“が、メカニックの余白がガンプラブームを産み、ストーリーの空白がスピンオフ作品に繋がり、イデオロギーの問いかけがアナザーガンダムを語らせてきたのではないかと考えます。

“余白”の感性はどこで身につけられたのか、何からもたらされているのか。
それは幼少期から今に至るすべての体験が富野監督の根幹を形成しており一言では言い表せないものですから、是非『富野由悠季の世界』観に行ってその人生・そのキャリア・その時々のメッセージすべてが融合して出力された結晶だということを感じていただきたい。

庵野監督の挑戦『Q』、14年の“余白”

恐らく庵野監督は『Q』にて、この”余白”による作品作りに挑戦したのではないでしょうか。

14年、この月日によってシンジ君の周りの人物は何もかもが変わってしまいました。ミサトさんの手のひら返しはどれだけdisられたことでしょう。
しかしながら、各キャラクターの心情を洞察する諸条件は須らく劇中に演出されているのです。『序』『破』にて語られた各キャラクターの精神的原点と、ニアサードインパクトの惨状・NERVとWILLEの決別といった現状とを結ぶことで、14年間が解析的に洞察されるはずなのです。

『シン』にて全キャラクターの心情が本人の口から語られることとなりました。ゴジラは喋らないしダース・ベイダーは息子の顔をみるだけで成仏できるから美しいんだと考える僕にとって、『シン』の皆さんはあまりにおしゃべりすぎるのです。『シン』を絶賛するファンの姿に、かつて「『逆シャア』でアムロとシャアは死んだんですか?」と聞く人間の面影を見てしまうのです。

庵野監督は『Q』での挑戦を諦めてしまったのでしょうか。もしくは”皆に受け入れられる作品作り”という元来願うべき目標に回帰したのでしょうか。

富野監督の挑戦『Gレコ』、未来へのメッセージ

富野監督はまだまだ挑戦します。

展示会にて最も驚いたことが“企画書”でした。企画立ち上げ時点ですでに主要キャラクターや世界観の設定は当然のこと、視聴者へ訴求するテーマやそれをどのように表現するのか、そのための舞台装置としてどの設定があるのかといった本質的内容が既に考え込まれているのです。(作品によっては最終回の内容すら決まっている。)

これら企画に必要なすべての事象を自身の内面、その深層まで取り込み、融合させアニメーションに出力する。一言では語りえない”富野監督独自の手法”をもって、未来へのメッセージを残さんと『Gのレコンギスタ』は制作されています。

「このおじいちゃんが未だに挑戦を続けているのに、庵野監督はどうして挑戦をやめてしまったの・・・?」おそらくこれが、僕の抱いたモヤの正体でしょう。

オマージュは庵野監督の”呪”

岡田斗司夫先生が自身のYoutubeで『シン』の解説をなさっていました。

作中に多数登場するオマージュは庵野秀明にとって呪的なものである。という説については非常に納得させられました。

ストーリーテリングに対する挑戦、破壊的衝動を抑えるための封印として、自分の才能を映像美への挑戦とカタルシスの演出に全力をささげるためのおまじないだったのではないか。

また庵野監督自身の深層にある力を引き出すため、自分を構成し自分が心棒する神をオマージュしたのではないか。

天命を果たし未来へメッセージを残すべく『シン』を産み出したのではないか。

以上を一言でまとめると、

やらかしてくれなかったのでがっかりしている。ということになります。

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