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我々は悩み苦しむだけの存在じゃない



Aセクシュアルが映像作品で扱われると知り、『17.3 about a sex』第2話を見た。このところ体調を崩して文字を読んだり話したりする体力がすっかり落ちてしまったので、映像作品があるのはありがたかった。また、Aセクシュアルがドラマという形で生身の人間で表現されることの新しさ(もしかしたら他にもあるのかもしれませんが、現時点で「私はAセクシュアルである」と明示された登場人物が出てくる、そしてAセクである人物を主軸にして描いている映像作品はこの作品しか把握していません。)にも惹かれ、期待と不安を抱えながら見た。

見終えて、この作品が作られて、見ることができてよかったと思った。同時に、どうしてそうなってしまうのかと思うような場面もあった。それら含めて、AロマAセク寄りの一個人としての感想を書いていきたい。また、第2話以外にも紬=Aセクシュアルの子は登場するが、今回は第2話の紬の描かれ方をメインに取り上げるので、他の話での紬の動向や立ち振る舞いには触れない。


Aセクシュアルの描かれ方


『そもそもセックスってしなきゃダメ?』というタイトルを冠した2話は、「誰かと付き合ったことがない、好きな人ができたことがない、それに対しうらやましいと思ったこともない」紬が、友人である咲良と祐奈に「そもそもセックスってしなきゃダメなわけ?」と疑問をぶつけるところから動き出す。「人類繁栄?楽しいし!」「してみればわかるから」「まあ焦ることでもないけどね」と納得のいかない答えが返ってくる中、幼馴染の康太と再会し、映画に誘われる。その場ではライン交換をして別れ、なんとなく二人から期待されている「そういう」流れや展開を察するが、リアリティが持てない。でも、「今はまだ気乗りしないかもだけど、でも恋した方が絶対楽しいって」と励まされ、一緒に映画に行くことに決める。
康太が誘ったのは恋愛映画だったようだ。二人で一つのポップコーンをシェアして、手が触れあって、キスシーンで康太が紬をこっそり見つめても、紬は全く気付かない。映画が終わって感想を言い合うが、面白かったと言う康太と対照的に、紬は何が面白いのかわからない。主人公と男の人が久しぶりに会って情熱的にハグとかキスする流れも、どうしてああなるのかがわからない。

「ポップコーンはおいしかったけ」どね、と言いかけた瞬間、康太から突然キスされる。そして「付き合って欲しい」と告白されるが、紬の表情からは喜びどころか驚愕すらうかがえない。そのまま足早に帰路につくが、途中で息が荒くなり、耐えられず道端で吐いてしまう。ペットボトルの水で何度も口を洗うが、気持ちは収まらず自分の部屋に戻っても暗い表情だ。

しかし、そのことを咲良と祐奈に話しても「凄すぎる!」「どんな感じだった?」とまるで楽しい話題のように盛り上がられる。

「良かったなんて言ってないじゃん。キスされたって言っただけじゃん。キスされて嬉しかったなんて言ってないじゃん。」

自分はただ男友達と一緒に映画を見に行っただけなのに、それは「映画デート」と呼ぶらしい。その先には付き合う付き合わない、キスやセックスとかがなきゃいけないらしい。もしそうなら、地獄でしかない。「私、病気だから。もうほっといて。」と立ち去る。

そして「恋愛できない 病気」と調べると、あるサイトに行き着く。「恋愛できない=『アセクシュアル』とは」というサイトだ。それを見つけた次の日、学校の図書室で本を探すも見つからない。

「何の本探してたのー?」紬に声をかけたのは生物の先生。「アセクシュアルの…本…」と言った紬を一瞬見つめると、ここにはないから来て、と生物室に招く。そして先生は『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』という本を差し出す。


ここから先生と紬のやり取りによって、Aセクシュアルについての話、紬自身の話が始まる。ここでまず語られるのは、「(恋愛とかセックスに興味がないことは)別に全然おかしいことじゃないよ」だ。キスして気持ち悪くなることは「病気だから」じゃない、それはセクシュアリティの話なんだよ、と教えてくれる描写を見て、自分もそのことを教えてくれる人がいればもっと楽だったのに、とうらやましくなったし、だからこそセクシュアリティの話としてきちんとドラマで描かれているのはとてもいいことだと思った。友人との会話でセックスについての嫌悪感を示したとき、「したことないからそう思うんだって」「焦ることでもないけどね」と言われ、映画に誘われたことに悩んでいる場面では「恋した方が絶対楽しいって」と言われている。(それらが直接の原因ではないのかもしれないが)その言葉に後押しされ、映画に行った紬は、熱いハグもキスも「そういう流れ」も、そして自分がその渦中に置かれてもそれらがわからないことを知る。特に前半部分では、それらがわからない紬と対照的に「恋愛や性愛をするのは当たり前」というような描写が多く含まれる(ファミレスや映画館でのシーン以外にも、51秒からの廊下のシーンも象徴的)。このような社会にいると、Aセクシュアリティに関する知識に出会うのはとても難しい。先生と話す紬の表情を見て、病気でも個人的な問題でもない、セクシュアリティの話としてAセクシュアルと出会ったときの驚き、安堵、次々に自分の状態に説明がついていく感じを思い出した。

また、Aセクシュアル(とAロマンティック)の人の経験することを挙げた後、「アセクシュアルといってもいろんなタイプの人がいるから一概には言えない」と言う生物の先生のセリフがとても誠実だと思った。それを含めAセクシュアルのことを「生物の先生」が紬に教えてくれたのも、Aセクが受ける偏見を跳ね除けるための描写だと感じた。性愛至上主義が強固に蔓延る現在の社会では、他者に性的欲求を抱かない人間は「生物学的に異常」などと言われることがある。それを否定するのが他でもない生物の先生というのが、心ない言葉への明確な否定であり、皮肉でもあるように感じた。

Aセクであってもパートナーがいる人もいる、というセリフも、孤独のスティグマを貼られやすい属性であるAセクシュアリティに寄り添っていると感じた。セクシュアリティとパートナーの有無は関係ないという明確な事実をはっきり語ることで、他者に性的・恋愛的に惹かれなくとも、そうであることは必ずしも孤独であることを表さないことを示していたように感じた。


『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』の登場


紬はキスを気持ち悪く感じたり、性的なことや恋愛的なことが理解できない自分は病気なのではないかと悩み、それらを説明することができるAセクシュアルという概念を知る。そのきっかけになる小道具として、『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』が登場する。この本は実際に流通しており、日本語で読めるAセクシュアリティの文献としてわかりやすい書籍である。

ドラマの中でこの本が登場したのにはとても驚いたし、まさかドラマでこの本を見る機会があると思わなかった。Aセク啓発(の意図がこの話にあるかはどうかは別として)の側面としても、Aセクを取り上げることで起こるであろう「Aセクシュアルって何?」という疑問に答える側面としても、現状において最適解なのではと思う。この流れで日本語で読める最もわかりやすい文献を登場させるのは、インターネットにもあまりにもAセクシュアリティの情報が少ないがゆえに悩む人にとって、救いの手になると感じた。個人的な感覚だが、自分がAセク、もしくはAロマ的なのでは?と疑問を抱いても、その違和感を言語化して検索エンジンにかけ、一発で求めている情報にたどり着くのはなかなか難しいものがあるように思う。例えば「セックスしたくない」と検索するとセックス嫌いの克服方法やその時の断り方、「恋愛感情がない」と検索するとそのような人の特徴や対処法、もしくは「アセクシュアル」として紹介される記事にたどり着く。特にAロマなのでは?という疑問を解決したいときにAセクの情報を読むと、言っていることはわかるけどそうじゃないんだよな…という歯がゆさを感じたり、恋愛感情がないことはあり得ないことなのかな、と正しい情報を知ることができないままになってしまうことがある(かつての私がそうだった)。紬のように病気なのでは?という疑問の持ち方もあるだろうし、私は「そういう人間もいるのか?」という疑問の持ち方をしており、まさかセクシュアリティの話に行き着くと思っていなかった。「そういう人もいるよ」という一言によって違和感を溜め込ませたままにさせないためにも、アクセシビリティは保障されるべきだ。セリフによって内容の抜粋、簡単な説明はするけれど、まず本をそのまま出すことによって「あれを読めばわかるのかもしれない」という希望を示す方法に誠実さを感じた。


Aロマンティックの不可視化


だからこそ、あの本の取り上げ方、そしてセクシュアルとロマンティックを一体化させて扱うような描写をやめてほしいと思う。紬が開いたページには、

アセクシュアルの定義
①他者に対して性的魅力を感じない
②他者に対して恋愛感情を感じない

と書かれている。①はAセクシュアルの話だが、②はAロマンティックの話だ。実際に流通している『アセクシュアルのすべて』を持っているので内容を比べてみたのだが、私の手元にある本に上記の記述はない。ブックカバーは実際のものと同じだが、ドラマの展開に合わせた小道具として内容は変えたのだろう。

紬の語りはAセクとAロマを混同してる感じだったけれど、それは問題ではない。紬の経験は紬のものであり、個人の経験を他者がそれは性愛、それは恋愛と区別することはできない。例えばキスが性愛的なのか、恋愛的なのか、どちらでもあるのか、どちらでもないのか、それを感じるのは本人にしかできない。
だから、教える側である先生に明確に性愛と恋愛は別物で、セクシュアリティも同様であると言ってほしかった。先生がなんとなくAセクシュアル、Aロマンティックを分けて説明しているな、というのは分かったが、それは私がある程度の知識があるから分かるのだと思う。あのドラマで初めてAセクシュアルという言葉を知った人は、「Aセクシュアル=他者に性愛も恋愛も感じない」と認識してしまうのではないだろうか。せっかく定義が載っている『アセクシュアルのすべて』を登場させたのだから、Aセクシュアル=他者に性的欲求を感じないで統一してほしかった。ネット記事でAセクシュアル=恋愛感情がないと展開されているのは、現実のインターネット記事でも大体同じことが起こっているのでまあリアルな描写ではあるなと思ったが、「A-セクシュアル」にロマンティックの話を混ぜるのはやめてほしい。性愛と恋愛が区別されずに「Aセクシュアル=AロマンティックAセクシュアル」として語られてしまうと、Aロマンティックはその存在の不可視化が長引き、その分悩んだり苦しんだりする時間が伸びてしまう。性愛と恋愛は別物として存在できないのか?という強烈な違和感を持っていた当時の自分は救われたのかな、と思いながら見ていた。それでもドラマからあの本にたどり着くことが出来るだけいいのかな、とは思うが。本編終了後、「アセクシュアル・アロマンティック・デミロマンティック・リスロマンティック・ポリアモリー」の一言説明コーナーがあり、そこでは「アロマンティック:恋愛感情を抱かない」と明確に書かれている。どうして本編では恋愛感情を抱かないことがAセクシュアルの説明になってしまったのだろう。どうして本編で「Aロマンティック」というワードは登場できなかったのだろう。


Aセクであることは「欠落した人間」を意味しないー傷つき、悩み、そして怒る私(たち)


このドラマを見て最も嬉しかったのは、紬が表情豊かに、そして感情豊かに描かれていたことだ。作品で描かれるAセクシュアルやAロマンティックの登場人物は、平坦で感情表現が乏しいとか、この話で言うと紬が急にキスされたことにあたる出来事にあった時、悲しんだり苦しんだりして終わることが多いように思う。そしてその後は非Aセク側の自省で終わる、というパターンもよく見られる。キスされ、吐いてしまうほどの嫌悪感を覚えても、やっぱりキスを受け入れられない自分がおかしいのかなと悩み、その流れで『アセクシュアルのすべて』に行き着く、というストーリーも全然あり得たと思う。

望んでいないキスをされた後日、紬は友人たちに映画の日のことを聞かれる。そこで事の顛末を話すと、(「初デートで初キスなんて」)うまくいってよかったじゃん、と言われてしまう。
そこで紬は、どうしてキスされた=よかったと言うのか、自分はよかったなんて言っていない、自分は嫌だったのになぜそれを認めてくれないのか(この怒りは無神経な友達への怒りでもあり、自分=紬のような存在を尊重しない世界への苛立ちでもあると感じた)、私の何がわかると言うのか、異性と出かけたらそれはキスやセックスの許可サインなのか、そんな訳のわからないルールを押し付けるな、と怒りを表明している。そして、紬の怒りの理由がわからず戸惑う友人たちに「私、病気だから」と、どうせおかしいのは自分の方だという苛立ちと諦めを語ってその場を立ち去る。

前述したとおり、「悩み苦しむ紬」を描いてすぐにネット検索、もしくは図書室のシーンに移っても、話としては成立する。だからこそ、紬が怒りを示したシーンが描かれたことに意味がある。
AセクやAロマの人間は、他者に性的欲求/恋愛感情を「持たない」という特徴のためか、あらゆる感情が希薄で平坦だとか、激しい感情を抱かないだとか、他者に対して冷たいだとかといったような見られ方、描かれ方を現実でも物語の中でもされやすい存在だと思う。それは「人間として当然備えているはず(べき)欲求である性的欲求」や「人間らしい感情でありとても楽しいものである恋愛感情」を持っていないことが「人格の欠落」に繋がりやすいからだと思う。
何作かAセクシュアルやAロマンティックの登場人物が登場する作品を読んできたが、皆物語の中で悩み、苦しんでいた。その中で紬が「私はキスやセックスをしたくない、どうしてそれらを『普通は嬉しいこと』と押し付けてくるのか、どうして私を尊重してくれないのか」と友人に、そして規範に怒る姿を映したことで、Aceたちに私(たち)は怒ってもいいんだということを示してくれた。

私(たち)は人間関係で悩み苦しむのと同様に、人間関係のなかで怒りを感じることがある。また、デートやキスやセックスをしたいと思うこと、それらは楽しく喜ばしいものであるという規範が頑固に蔓延っている社会に対して、苦しめられる辛さと同じくらいの怒りを感じている。ある感情(や欲求)がないからといって、それが人格と結びついているように見えるものだからといって、それはすべての感情の欠落を表さない。私たちの怒りの感情を無下に扱われていいはずがないのだ。


怒りの感情だけでなく、紬を表情豊かに描き演じてくれたことはとても意味のあることだと思う。映像と物語(文字)と漫画(絵)では、シンプルに情報が違うから簡単に同じ基準で比べるのは違うと思うが、リアルと最も近い映像の中で、平坦な人間とかあらゆることへの関心が薄い人間のように描写されがちなAセクシュアルの人間を、豊かな表情表現や、いつもヘッドフォンで音楽を聴いていて、AC/DCのバンドTを私服にするくらい好きなものがある子という言語外の設定などで、そういう感情や人間としての細部をないことにしない姿勢がとてもよかった。


マジョリティ側の変化を描く


時間軸は少し戻って、紬が生物室で先生と話しているのを、紬の友人の一人、咲良がこっそりと聞いている。そして聞き終えて、紬があんなに怒っていた理由を理解する。

下校時間、咲良は木の前で誰かを待っている。そして向こうから紬が歩いてくると、咲良は駆け寄り

『ごめん、さっき話聞いちゃって。私、アセクシャルのこととか全然知らなくて。無神経なことばっか言ってほんとごめん』

と頭を下げる。そして、

『なんて謝ったらいいかわかんないけど…私、紬のこともっと知りたいし、話してほしい。だから、友だちやめないでくれる?』

と紬をまっすぐ見て言った。

※全話見ていないので咲良がどういう人なのかわからないけれど、第2話の世界線において、紬/咲良・祐奈の間には無性愛者/性愛者という違いがあるように描かれている(それぞれの発言の内容だったり、ファミレスで座るシーンで3回とも紬/咲良と祐奈で座っている)※

謝られ、友だちやめないでくれる?と問いかけられた紬は、「やめるなんて言ってないじゃん」と返す。思わず抱きついた咲良は、何かを考えて慌てて離れ、「抱きつくのとか、嫌じゃない?」と聞く。すると紬は無言で抱きしめ返すと、「嫌じゃない。ありがとう。」と嬉しそうに、感慨深そうに、何かを噛み締めるように微笑む。

Aセク側がマジョリティを受け入れる展開が描かれたものを見ると、どうしてマイノリティに規範を受け入れるように強要して解決とするのか、という怒りが沸くものが多かったけど、きちんと謝られて、もっと紬のことを知りたいという受容をされたことへの喜びの表情はすんなり入ってきた。


また咲良とのシーンに続いて、康太の告白への返事のシーンでは、

『返事だけど、ごめん付き合えない。私ね、もしかしたらアセクシャルなんだ』

と切り出し、今までも持ったことがないし、今後も持てないと思う、康太が嫌なのではないと、紬の方から「恋愛関係としての私と康太」にはなれない、でもそれでも良ければまた映画見に行こう、と「恋愛関係ではない私と康太」としての関係を築きたい、と、新たな人間関係を提案し、康太もそれを受け入れた。二人は次見に行く映画の話をしながら歩いていく。


いつものように3人が揃ったファミレスでは、祐奈が『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』を読んでいる。紬に借りたのだろうか。そして祐奈は「そういう性があるなんてぜんっぜん知らなかった、なんかごめん」と謝る。紬は穏やかな口調で誰だって自分の感覚しかわからないし、と返す。そこには前の苛立ちや諦めのムードは感じられない。3人はそれぞれの感覚について語り合う。


まず、無性愛者/性愛者の枠で見たときに、性愛者=マジョリティの側にいる人がAセクシュアル=マイノリティの側にきちんと謝るシーンを、初めて見た。とてもびっくりした。
これまで見てきた限り、AセクやAロマの苦しみを描いて終わったり、物語自体が規範を批判しないまま終わったり、非Aセクシュアル側は謝らずにAセクシュアル側の前からフェードアウトしたり、というのがAセクやAロマの出てくる作品のテンプレートだと思っている(あくまで私の狭い観測圏内の話なので、もちろんそうでない話もあるでしょうし、寧ろそちらの方が多いことを願っています)。

Aセクシュアリティ側が謝罪されにくい理由は、何が問題かが分かりにくく、作り手も、そして本人でさえもよくわからないことがあるからだと思う。

AセクシュアルやAロマンティックは、外から判断するにはかなりわかりにくい存在だ。私たちは、性的欲求が他者に向かないために他者と性行為をしなかったり、他者に恋愛感情を抱かないために誰とも恋愛関係を結ばなかったりする。それらは、性愛至上主義、恋愛伴侶規範が根強い今の社会では「相手やパートナーが不在なためにまだそれらをしていない(しない、ではなくしていない)」とされがちである。それらをしないのはAセクだから、Aロマだからと言って伝わる世の中だとはまだまだ言えないだろう。だから、恋愛感情に基づいて付き合うことや、キスやセックスのような、目で見て認識できる行動をそもそもしないAセクシュアルやAロマンティックは「ただそれらをしようとしていない人間」のように映る。否定しようにも、否定すべき行動を取らない人間を否定しようとするのは、実は難しいことなのだと思う。

その結果、Aフォビアは「Aセクシュアルなど存在しない」という存在自体の否定という形で表れるようになる。「まだ」「そのうち」「焦らなくてもいつか」といった言葉で望まぬ方向に連れていかれそうになったり、それらを拒むと「どうして?」「人間としておかしい」「証明せよ」と、あくまで純粋な疑問の顔をしていとも簡単に私たちの存在を消そうとしてくる。

咲良も祐奈も、紬に説明を求めてこなかった。ただ「ひどいことを言ってごめん」と謝った。そして紬の話をきちんと聞こうとし、Aセクシュアルの紬ときちんと向き合おうとしている。
これだけのシンプルなことだけれど、私はこれらのシーンを見て感動すら覚えた。謝罪するシーンが入ったことで、Aフォビアのヤバさがより浮き彫りになったように感じたし、謝られた姿を見たことによって、紬というAセクシュアルに向けられた言葉は謝られなければならないくらい酷いことだったな、と改めて突き付けられ、似たような経験をしてきた自分までしんどくなった。でも、やっぱり紬に謝る描写があってよかったと思う。

そりゃあ、その発言は何が問題でその背景にはどんな社会構造や規範があって、というところまで共有できたらとても楽だ。叶うのならそれを多くの人と共有できる世の中であってほしい。でも、まず欲しいのは「ひどいことをいってごめん」の一言、そして「あなたの話を聞く」姿勢だ。AセクやAロマの見ている現実を尊重しようとする態度を示すことが、どれだけ安心感を与えてくれるか。
全ての人が恋愛感情や性的欲求を持っていることが当たり前の世界の中で、それらを持っていないためにルールに適合できない存在として不可視化され、孤立してしまいそうになった紬がそうならなかったのは、紬が変化したからでなく、マジョリティの側が変化したからだ。そして、現実に生きる私たちの社会も、そうであるはずだ。


終わりに

細かいところで思うところはまだある(Aセクシュアリティの話として第2話を見終えた後にあのED曲はキツいとか、康太がキスしたことについて謝るシーンがないのはなぜなのかとか…)。また、ここでもAロマンティックの不可視化がされたことは悲しいし腹立たしい。AセクシュアルとAロマンティックを同じものとして語るのは、Aロマンティックの発見が遅くなり、それだけ苦しむ期間が長引くことなのだという認識がもっと広まってほしいと切実に思う。全9話をこのメインキャスト3名で進めるため、バランス的にこのキャラクター設定が最もよかったのかもしれないが、Aセクシュアルの人間に対するイメージとしてあるであろう「物静か」「冷静で穏やか」「感情の起伏が少ない(咲良や祐奈と比べるとどうしてもそう映ってしまう)」要素を持った子として描かれている紬だが、咲良や祐奈のようにもっとストレートな感情表現をする、パワフルな人間としてAセクシュアルを描いてほしかったという思いもある。(すべての人間がパワフルなわけがない、というのは尤もだが、Aセクシュアルはこれまで感情表現が乏しい、おとなしい人間としてばかり描かれてきた。だからこそパワフルに笑い、泣き、怒り生きているAセクシュアルの人間を見てみたいのだ。)
しかし、AセクやAロマに対する誤解や偏見を跳ね除け、規範への怒りを表し、関係からの退出を迫られることもなく、マイノリティではなくマジョリティが変化する様子を描くという、「Aセクシュアルが主人公として描かれたAセクシュアルの話」としては、今見られる作品ではいい方だと思う。何より、私は紬の怒る姿を見られて本当に嬉しかった。紬はこれからも様々な苦しい出来事に出会うだろうけど、怒りを怒りとして捉えてくれる世界と、紬の話を聞き、変わろうとしてくれる人が周りにいる環境で、どうか紬のまま生き延びていってほしい。そして私も、怒りを怒りとして発信し、変わるべきは規範の方なのだ、と叫びながら生き延びてやるのだ。