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ストップ・ザ・シーズン・イン・ザ・サン

 夏の太陽が夜を焦がしたせいで、六時過ぎだというのに外はバカンスのような明るさだ。先ほどから、ぴーひゃら、どんどこ、やんや、やんやと表通りがやけに騒がしい。きっと幸せの祭典でも催しているのだろう。かたやクーラー病に冒された俺は無気力に横たわり、なめらかな布きれの肌触りで心を癒やしていた。少し開けた窓から入る熱風に、誰かの残した風鈴が揺れて、詠み人知らずの歌を奏でている。きっと俺を憐れむ歌だ。

 電話が震える。俺も震える。あの日以来、彼女とは音信不通だ。スマートフォンを手繰り寄せ発信者を確認すると、ようやく俺のバイブ機能が止まる。

「なんだ、小僧かよ」

「松田です。先輩、今どこにいますか? そろそろ時間なんですけど」

 何の時間なのか分からない。松田の甲高い声と耳障りなざわめきが思考を遮る。

「家だ。とりあえず行かん。パス」

「ちょっと! 寝ぼけてるんでしょう?」

「この部屋には何かがうごめいている」

「は?」俺は電話を切った。

 この部屋には何かがうごめいている。もう一度、意味ありげに呟いてみる。「hey siri」も「ok google」も反応しない。だけれど確かに何かがうごめいている。実は俺にはその正体がバッチリ分かっているのだが、見て見ぬふりだ。そうやって己の闇とは向き合わず、枕の闇に顔をうずめると、俺は夜の白昼夢に溶けていった。こうしているうちに、つかの間の夏は終わってしまうのだと思いながら。

 プールだ。気が付くと俺はプールにいた。遊び心の感じられない四角い市民プール。まだ夏が眩しかった小学生の頃、よく親と来たプールだ。素足に食い込むタイル、凪いだ水面、ベタ塗りの空。目に入るものすべての色彩が青く壊れている。客はいない。監視員もいない。溺れたら誰が助けてくれるんだ?

 ぼんやりとした心持ちのまま、律儀にも消毒槽に浸かり身を清める。ついでに心まで浄化してくれないものか、などとつまらない考えをしていると、鼻孔を刺激する塩素の匂いが気付けになってこれは夢だと悟った。明晰夢。夢の中で夢だと気付くと、何もかも思い通りに操れるようになるのだ。

 水面に映る自分の姿をじっと見つめる。険しい顔。己の意志など無視して湧いてくる願いをなんとか塞き止めようと、難しげな思索で気を散らしている。たとえば、脳の片隅に生まれた虚構で願いを叶えることにどれほどの意味があるだろうか、なんてことを。もちろんそんな努力は無駄だって分かっている。叶うのが分かっていて願わない人間はいない。言葉で押さえても映像が、論理で封じ込めても感情が願望に肉付ける。 

「君に会いたい」

 こうして俺はひとりぼっちの世界にゲストを招き入れてしまった。途端にドラえもんのタイムマシンみたいな穴がホワンホワンと空中に開いて彼女が現れる。いつでも空気の読めない彼女らしく真っ赤な三角ビキニ姿で。ランウェイみたいにプールサイドを闊歩してこちらに近づいて来る。

「四角形の世界に三角形を持ち込んでどうするつもり?」

「あなたがわたしを呼んだんでしょ」

 目の前で彼女は扇情的なポーズを取り始める。グラビアアイドルほどではないけれど、なかなかセクシーだ。レフ板とビート板を勘違いしているのかもしれない。

「わたしってこんなことする女だっけ?」足を組み替えながら彼女は言う。

「どうかな」

「わたしのこと全然分かってないじゃん」

「そうかもしれない」

 既視感のある会話だ。あの日の俺は反射的に「そんなことない」と答えた。

「ねえ、これもあなたの趣味?」と、水着の腰ひもをひらひらさせる。

「さあね」

 そういえば、現実では彼女の水着姿を拝んだことはない。

 パラソル、デッキチェア、あるいはトロピカルドリンク。夏を思わせるアイテムを並び立て季節を演出する。青一色だった世界が雑多な色に浸食されていくのが少し心地悪い。

「欲がないね」彼女はプールにベッドのようなフロートを浮かせて寝そべっている。「なんでもできるのに」

 確かにその気になれば何でもできるのだろう。だけれど俺はそうしなかった。

「たとえば?」

「えー? 空を飛んだりとか。あっ、松阪牛を1ポンド食べるとか?」

「そんな良い肉食べたことないもん、再現できないよ」それに胸焼けしそうだ。

 つまんない、と彼女は天を仰ぐ。長い髪が水の上を放射状に広がって、脳を巡る神経細胞のようだった。俺は日焼け止めも塗らずプールサイドに横たわる。ここでは火傷の心配はない。

 夢は願望の発露である、とどこかで読んだ。ならば空を飛んだり、良い肉を食べたり、彼女と踊ったり、ハグしたり、裸で絡みあうなんてことにならないのは、俺が願っていないからだろう。大暑の日暮れに独り伏している現実の自分を思い浮かべる。この夢の舞台を生み出した主を。夏らしいことをひとつもせずに季節を傍観し、壊れていくだけの関係を悲観する俺は、真っ青なプールというシチュエーションを望んでいるらしい。ささやかな願いだ。それならば叶えてやるのが筋ってものじゃないか。俺は俺の夢に準じることにした。第一、プールがあるのに泳がないなんて考えられないだろう?

 そうして俺たちはしばらくの間、妄想と願望のプールをかきまぜていた。

「いつまでこうしてるの?」

 プールサイドから彼女の声。俺は河童みたいに顔だけ水面にいる。

「目が覚めるまで?」

「なにそれ。わたしを呼んどいて。この夢のオチはどうするつもりなのよ」

「俺に訊かないでよ。そりゃ、俺に訊く以外ないだろうけどさ」

「そうだよ、だから訊いてんの」

「夢に筋書きなんて必要ないでしょ。ここは脳の片隅にある幻みたいなもんだよ。すてきなファンタジー世界。夢の王国」

 俺はプールをよじ登る。透明な水滴がタイルを一段濃い青に染めていく。

「じゃあ、ここにいるわたしも幻ってことよね」

「そりゃあ、当然」

「ってことは」彼女が俺の目を覗き込む。感情を消した顔で。「あなたにとって、私はもうファンタジーなんだね」

 ハッとした。黒く塗りつぶしていた感情に光が当たった感覚。現実の俺が枕で蓋をして目を逸らしていた気持ち。夢の中で、意識と無意識の入れ子構造と夏の舞台装置、彼女の幻を用意してようやく結論にたどり着いた。

「手が届かないのものをファンタジーって言うならね」

 ひとつ息をつき、落ち着いて答える。慌てても何も手に入らない。目覚めた時、今のこの感情を忘れないでいてくれることを祈るだけだ。

「情熱が足りないんじゃないの」

 彼女は俺を睨むと大きな弧を描いてプールの中に飛び込んだ。

 水しぶきが跳ね上がる。小さな水玉が目の前に浮かんでいる。水玉は少しずつ少しずつ俺から遠のいていく。いつの間にか時間がスローモーションになっている。水玉の一粒に目を凝らすと、表面に俺と彼女が映っていた。今の二人ではない。去年のクリスマスの二人だ。しぶきはコマ送りのようにゆっくり広がっていく。俺は他の水玉に目を向ける。出会った頃の二人。デートをする二人。ベッドで重なりあう二人。一粒一粒に過去の思い出が映しだされている。我ながらなんて陳腐な演出なんだと思う。散りゆくものは美しい? そうかもしれない。でも、それって当事者のセリフじゃないだろう。

 水しぶきが水に還り、すべてが元に戻ると彼女の姿は消えていた。間もなく夢が終わる。

 プールの底と同じ冷たさの布団で俺は目を覚ました。夢の残滓がちらちらと飛び交っている。ずいぶん気取った夢を見たものだ。情けなさに身をよじる。それでも自分自身に礼を言わねばならない。手探りでスマートフォンを掴むと、俺は下書き保存していた長ったらしい文章を削除した。そして短いメールを送る。

 愛や恋なんてものを諦めようとして諦めるのは難しい。どうにかしようと考えれば考えるほど事態はこじれていく。だとしたらどうして終わってしまうのだろう? 答えは簡単だ。諦めるからだ。そう、俺は彼女を諦めた。呼吸のような静かさで薄れていく感情のグラデーションのどこかで、自分自身で気付かないほどあっけなく、些細なきっかけでもって。それ以降はきっと悲しみで麻痺していた。結末から目を逸らしていただけだった。たった今、夢の中で彼女に指摘されるまでは。

 やがて夜が夜らしさを取り戻して、部屋の外も中も闇が覆い尽くした。朝からずっと寝そべったままの俺は、もはや起きる理由などなく、気力を失い、つまりはずっと寝そべり続けるのだろうと思っていた。だけれどそんな怠惰な予想はすぐに覆される。

 突然の爆発音。

 送電線をたわませていたカラスたちが一斉に飛び立ち、北向きの窓が赤く染まった。俺はようやく最終戦争が始まったのだと思ったがそんな訳がない。

 花火だ。

 続けざまに大きな音が鳴り、空に大輪が咲いた。

「ああ、それでか」松田の電話が意味するところにようやく気付く。サークル仲間で花火を観に行く予定だったのだ。すっかり忘れていた。ここ数日はとてもそんな気分ではなかった。今もそれは変わらない。

 俺の気持ちなど無視して花火は続く。うるさくて眩しくてただでさえ迷惑なのに今日はそれだけではない。玉屋鍵屋と打ち上がり、何万発もかけて教えてくれる。どんなに時間や努力を重ねても終わる時は一瞬なのだと。余計なお世話だよ。これ見よがしの美が窓を支配して、せっかく訪れた夜を昼に引き戻そうとしている。チラチラと輝いて散る青のサブリミナルがさきほど夢で見た空をいたずらに思い起こさせた。

 そういえば。

「浴衣姿も見たことねえわ」

 俺は半日ぶりに起き上がると、ゴミと洋服と本で散らかった床をインサイドとアウトサイドキックを使い分け道を作り、耳障りな喧噪を招き込む窓を乱雑に閉めた。

「先輩」

 突然の声に悲鳴を上げながら振り返ると、玄関に松田がいた。

「驚かすなよ」

「鍵が開いてたので。先輩がおかしなこと言ってるとみなさんに相談したら、様子を見てこいって」

 なんてことだ。この情けない様がサークル内で共有されてしまった。呆然とする俺の後頭部を花火が七色に照らして演出してくれる。

「この部屋、汚いですけど、特等席じゃないですか。花火見放題ですね」

 お邪魔します、と言って松田が上がり込む。律儀に靴を揃えて偉いなと思う。

「汚いは余計だろ。汚いけど。まあ、周りに高いビルないからな」

「花火、奇麗ですね。あ、今のやつはもっと奇麗」

 松田は俺の存在を半ば無視してさっそく花火に夢中だ。人の気も知らないで。

「キレイ、キレイっていうけれど、花火を作るのにどのくらい時間がかかるか分かってんのかよ」

「えっ? えーと、いやあ、分からないです。どのくらいかかるんですか」

「いや、俺も知らん。お前なら知ってるかと思って」

 俺のわけの分からない言いがかりのせいで若干空気が重くなってしまった。松田がチラチラと俺の表情を窺っている。

「先輩、みんなのところ行かないんですか」

「いや、そうだな。蓮沼……さんとか、いるの?」

「来てますよ」

 部屋で塞ぎ込んでいる自分が馬鹿みたいだ。

「あっ、今日は女性陣、全員浴衣です!」

「お前、違うじゃん」

 気の抜けた会話の間にも花火はポンポン打ち上がる。切りすぎてワカメちゃんみたいなショートカットの女と、刈りすぎてカツオくんみたいな頭の男が合間合間の暗転で窓に映る。

「やっぱり奇麗」

「それは他人事だからじゃないか? 打ち上げられているのが、お前んちの家財道具だったら同じように思えるかな」

「どんな前提ですかそれ。さっきからムチャクチャですよ。花火嫌いなんですか」

「好きでも嫌いでもない……いや、今はちょっと嫌いかも」

「そんなこと言わないでくださいよ。職人が一ヶ月もかけて作ってるんですから」

「お前、調べたのかよ。偉いな。へえ、そんなにかかるの。俺なら勿体無くて打ち上げたくなくなるね」

「先輩、やさぐれすぎですよ。いつもの元気はどこへ行ったんですか。打ち上げたら、また作ればいいんです。花火も……」

 そこで松田は急に口ごもった。

 恋も。おそらく松田はそう言おうとした。もしかしたら、俺と彼女とのあれこれをすべて知っていて、励ましに来てくれたのだろうか。だとしたらとんだありがた迷惑だ。

「馬鹿だな。作っても打ち上げたら、また消えちまうじゃねーか」

 馬鹿じゃないですよ。松田はぼそりと漏らす。そして眉間に皺を寄せて俺を睨みつけつつも諭すように言う。

「そんなの簡単ですよ、火を付けなければいいんです」

 満足そうに松田は微笑んでいる。俺もつられて笑う。こいつは馬鹿だから知らないんだ。花火は火を付けるためにあるんだってことを。第一、花火があるのに火を付けないなんて考えられないだろう?

(イラスト オカヤマタカシ


あとがき

おひさしぶりです。夏の話なのにこんな時期になってしまいました。
タイトルは某夏のバンドの曲からですが、特にファンというわけではありません。

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