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現代の落語と現代の悟り

最近「ゴミ屋敷とトイプードルと私」という漫画をピッコマで読んでいます。
毎日1話ずつチマチマと読んでいるんですが、例えば「闇金ウシジマくん」にしても、こういった落ちぶれ話ってのは(良い意味で)現代の落語と言えるのかな〜と思います。

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漫画表現としてもちょいちょい誇張はありますが、正直こういったパターンの人間って少なくないと思います。
キラキラ女子になりたくて無理をしてしまう、滑稽さに気づかない、借金をしてしまう、でも自分を客観的に見ることは出来ない…。

僕自身の生活から見れば若干の非日常が混じっていて、漫画だとか読み物としては娯楽の範疇にありますが、もちろん探せばこういう生活が日常の人も居るんだと思います。
例えばインスタの「いいね」を承認欲求のために買ってる、なんて人も探せば居るわけですし。

「おばあちゃんは昔港区女子でね…」
なんて言ったとして、それはキラキラどころか「おばあちゃん、その話はもう聞き飽きたから」と言われるでしょう。
ピチピチのパーリーピーポーも、いつかはシワシワのヨボヨボピーポーになるわけです。
でもそれは凋落ではなく、自然の老化によるものだし、避けられない。

生物ってのは望まざるとも死に向かって歩んでいるわけで、意識の有無に関わらず、結局死ぬ時は自然の一部に還るんだと思います。
ロハスとかスローライフってのは、自分が骨になる過程で体を慣らしている、みたいなことなのかな〜と感じてしまいます。

極端な見方をすれば、本当に貧している人間から釈迦や悟りは生まれないんじゃないかなと思います。
お釈迦様はそもそも王族で、今で言うキラキラの極みだったみたいな人で、そんな人が「老病死からは逃れられないよな〜、悩ましいよな〜」と悩みに悩んで悟りを迎えたわけですから。

そう思うと、セレブとかキラキラは、悟りを開こうとし始めた時に土をいじり始めるのかな〜、と思います。
結局、実際の農家に比べればそれはレジャーみたいなもんですけどね。

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環境問題に関心を持ったり、自然に友愛を感じてみたり。
キャラ作りもあるかと思いますが、それって今までのキラキラした生活から反目したがっているようにも見えます。
でも、そこからマジで農家になるとかそういう方向に行かないのは、まだまだキラキラ生活を捨てたくないからなんですよね。

そういう意味では、俗欲の尽きない様子にも見えますし、悟りへの1歩にも見えます。
(釈迦も29歳までは在家でしたしね)
漫画の中にもありましたが、インチキ臭いヒーリングセラピーとかスピリチュアルみたいなのも流行っているのも、その流れから見れば自然かもしれないですね。

もしかすると令和のブッダは、お寺ではなくてインスタから生まれるかも知れませんね。
それもまた、偶像かも知れませんが。

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