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今さらながら「脱社畜」って強い言葉について

そもそも脱社畜ってなんだって人もいるかと思いますが、昨年末、ネット界隈でいろいろと物議をかもした「脱社畜サロン」騒動

ネットの海をウロウロするのがスキな方の中には、ご存知の方もいるかも知れませんが、わからない方のためにも前提として共有するところからはじめたいと思います。

オンラインサロンの一つが大きく炎上

最近、著名人をはじめ、いわゆるインフルエンサーと呼ばれるような影響力を持った人たちが有料でグループ設け、その中で交流を深めたり、オフ会を行ったりするサロンが4年ほど前から流行ってます。

サロンで提供される内容はそれぞれで、製品を出すためにデザインのアウトプットを常に繰り返すものもあれば、徹底的に議論をしながら考察を深めるために毎日テキスト情報や動画が届いたりするものもあり、オーナー次第によってさまざまな色が出ているのが特徴です。

その流れに乗り、某有名ブロガーが中心となり、現在、会社に身も心も縛られた結果、社畜となっている人たちを救うため、脱社畜させるためのサロンが立ち上がりました。

「脱社畜」って、あまりにも強い言葉と、某有名ブロガーの方々が実際に脱社畜して生活をしてしまっているため、妙な説得力があり、ドンドンが人が増えていきました。

瞬間風速的にサロン内には加入人数が増えていき、順分満帆化に見えたものの、小規模の火災が発生したところで鎮火の方法を誤り、大いに燃えてしまう炎上案件と化した結果、共同サロンオーナーだった1名が交代するに至りました。

諸々の経緯については、元サロンメンバーいしかわさんのnoteが疑問点含めて読みやすく把握しやすいと思いますし、西野さんも自身のブログで考察してます。貼っておきますので参照ください。

「脱社畜」が使われたのはブログのが先

僕の中では「脱社畜」なんてインパクトのある強い言葉に出会ったのは、はてなブログで日野瑛太郎さん(Twitter)が書いていた「脱社畜ブログ」がはじまりです。ちなみに、日野さんが使われるようになってから大体的に広まっていったような印象もあるので、上記したサロンは後出しになりますね。まぁ、それはいいとして。

脱社畜ブログを見つけて読み出した際、本当に印象的でしたし、日野さんは2013年に『脱社畜の働き方』なんて本を出されているぐらいに脱社畜に関して真剣に向き合ってきた方なのですが、上記の炎上案件に対して日野さんも、さすがに一言いわねばならぬ...とばかりに自身の大切にしてきたブログ内で件(くだん)のサロンについて述べています。

そこで書かれている一文に、語気を強めなくてもついつい強く響いてしまう「脱社畜」なんて言葉を大切にしてきたのだと思える一説があるのですが、言葉は使う人次第によって、こうも印象が異なるものかと思いました。

基本的に、僕が考える「脱社畜」という言葉の本質は「会社を絶対視しないものの見方を身につけること」にある。だから、会社員であっても脱社畜は可能だし、もちろん、今の職場を辞めなくても脱社畜は実現できる。そのうえで、経済的にも脱社畜したいという人に対しては、とりあえず会社に勤めながらプライベートプロジェクト(今流に言うなら副業)というかたちで「自分だけの仕事」をはじめることを勧めてきた。これならリスクを最小化しつつ、自分の新たな可能性を探ることができる。

日野さんの文体を読んでいただけるとわかるかと思いますが、「脱社畜ブログ」は非常にバランスの取れた記事を書いています。

先鋭化しすぎて、尖りまくった意見ではなく、あくまでも会社員としての苦悩や喜びを共有した上で、ただ、一つの組織に体だけでなく精神的に縛られないような「生き方」を身につけるためのバランス感覚を読者に対して提供してくれます。

一つの組織に染まり上がる生き方を疑問視しながらも、これまでの生き方を否定せずに、これから自身をより豊かにするための見識を持てるようになると僕は思っています。また、記事を読んでいくと日野さんの思考過程を眼前で共有してもらってるような感覚となるのですが、これって書き手によっては全く得られない感覚です。

僕の中での良質な読字体験は、その場で話をしているかのような錯覚に陥るまで言語化され、著者が読者を存分に想像されている文章を読める機会を得た際に起こります。

日野さんのテキストもそうですし、上の西野さんのブログでもそれを味わえますので、未読の方は読んでみてください。

バランスを失ってしまうと「苦しい」と言えなくなる

いわゆる終身雇用だったり、年功序列だったり、と日本での標準的な雇用慣習だったものが、近年になってやっと疑問を抱かれると共に、実質的に代表格であったトヨタが明確に示したように、現状に即していない慣習になってきた感が否めません。

これについては、今更感がありながらも、目上の人たちを敬いすぎてしまう日本の文化に一石を投じないかなぁ、と勝手に期待しています。

宣誓や先輩、上司のいうことはをなんでもかんでも「絶対」ではないですし、間違えている、おかしいと思う内容もたくさんあります。

おかしいと思いながらも、「絶対的な上下関係」を教育の段階から前提として立ち振る舞わざるをえず、常に我慢しつづけ、時として憂さ晴らしのために同じような思いや傷を抱える人達と愚痴をこぼし合いながら「一人ではない感」を養うために傷をなめ合う。

そんな時間を過ごすうちに知らず知らずにうちに「おかしい」と思う気持ちは麻痺してしまい、結果として「社畜化」した人がいるからこそ、上記の「脱社畜」なんて言葉が「強くなってしまう」のです。

「一つの会社しか知らない」「属するコミュニティが会社だけ」なんて大人が語る「社会」が嘘っぱちで、狭い世界の話でしかないわけですから、そんな話に耳を貸す若者はいません。

往々にして若者たちは、一つのコミュニティだけでなく、別の居場所を持っている人たちが少なくないため、一つの組織で「だけ」存在感を出す大人に興味をいだきませんから、「おっさん」なんてあるメディアが蔑称とも取れるように使いだしたのにも納得ができるような気がします。

僕としては、会社を辞めるにしても、継続していくにしても、冷静な判断が必要であると同時に、その冷静な判断をする上で、バランスがスゴく大切だと考えています。

トレードオフの話ですが、何かを得るためには何かを捨てなければならないわけで、それをきちんとテーブルの上に並べた上で、自分として優先したいものは何か、それをするために何なら、どこまで許容できるのかといった内容をきちんと把握しておくだけの思考はすべきだと思うわけです。

トレードオフ(英: Trade-off)とは、一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという状態・関係のことである。 トレードオフのある状況では具体的な選択肢の長所と短所をすべて考慮したうえで決定を行うことが求められる。(Wikipediaより)

かくいう僕もそれが苦手だからこそ、これまでの人生において自身の生き方に大きく苦労をしているのですが、後悔はしていません。過去に戻りたいとも思いません。そんなことをしたところで、結局は「同じ」を繰り返すだけですから。

とかくバランスを失った場合、もしくは失っている場合、取る行動や思考はロクなことがありません。そのためには、普段から状態を共有できる存在を確保しておく必要があるのは言うまでもありません。

それが家族であるのか、恋人であるのか、友人であるのかはそれぞれにあるでしょうが、あまりにも強い言葉に引っ張られる際には、バランスを欠いている場合が多いので、ちょっと頭の片隅にでも入れておいて損はないかなぁ、と思います。


長々とお読みいただき、ありがとうございます。最後に、日野さんが書かれた書籍の中から「社畜」になるのを防ぐ思考法を紹介したいと思います。

社畜の思考法『社会人としての自覚に欠ける行動は慎むように気をつける』
脱社畜の思考法『社会人という言葉が出てきたら鵜呑みにせずに社畜に置き換え警戒する』
社畜の思考法『人生の中心にあるのは仕事である』
脱社畜の思考法『仕事は人生のほんの一部にすぎない』

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