スポーツの『価値』ってなんだ
唐突ですが、正直に言います。
僕はスポーツの『価値』ってやつについて、いまいち分かってません。スポーツには価値があるのかどうか、という点で見ても、僕は懐疑的というか、疑問を頂いているというか...。
商業的な見方をするのであれば、今後は可処分時間が増えていくだろうから、そうなった時に娯楽の一つとしてスポーツは有力だ、なんて言われ方をされているのを目にしたことがある人もいるでしょう。
けど、それって本当でしょうか。
スポーツの力ってヤツは、誰でも享受できるものなんでしょうか。スポーツというものがあまりにも普遍的で身近な存在になることによって、その力が逆に失われる、なんてことないんでしょうか。
僕はスポーツの価値は「感情」が大切なキーワードだと考えています。ただ、それには条件がある、とも考えているので、今回はその価値について考えてみようと思います。
スポーツの役割としての機能
スポーツには役割としての機能があるとは思っています。何の役割かといえば、自己投影や自己肯定という『自分の定義』をするための助力となるものです。
スポーツには「する」「みる」「支える」ということがスポーツ立国戦略として日本が国として幸福で豊かな生活を得るという権利を満たすための手段としてスポーツへの関わり方を紹介しています。
僕はどんな関わり方であれ、人という生物には感情という特性がある以上、感情を持って取り組んだものは、最終的に本人へ帰結すると思ってます。
つまり、その人が感情を持ってやったことの結論はどんなものであれ、その人らしい感情として返ってくる、と。
もうちょっと簡単にしてみます。
例えば、痩せたいと思って始めたランニングや筋トレ。痩せたいという願望に対して、一喜一憂し、感情が上下する、なんていうのは実際に体験したことがある人もいれば、体験しなくとも想像できますよね。
その感情が上がっているところで、意思を貫くことができ、実際に痩せることが叶った人は、その後も継続的に自らの「痩せた」という成功体験に対して貪欲に追求するという感情が芽生え、行動に反映されます。
逆に、願い叶わず、痩せることが叶わなかった人の場合、逆の感情をが増幅され、運動をしなくなるかもしれません。
いずれにしても、取り組んだ人自身に対して、どんな形であれ”その人らしい”感情が結果として跳ね返ってきます。
僕が思うに、それがスポーツの魅力だし、それがなんとなく心地良いから、スポーツをやるし、観るし、運営として支えよう、ってことになるからこそ、成り立っているんでしょう。
場所・空気・機会
スポーツって、それを受け止める器みたいなものだと思っているのですが、それをするにも必要条件があって、人によってはその条件に違いが出るのかもしれませんが、僕が考えるのは以下の3つ。
■ 場所(Place)
これは実際的な意味での空間という意味での場所もそうなのですが、それ以上に認知的な意味で存在感という意味合いの方が強いです。
どういうことかというと、スポーツを「する」にも「みる」にも、それが行われる場所に赴く必要があり、その場所に集まった人たちでスポーツを楽しむことになりますよね。
ドラえもんでいうところの空き地です。みんなが集まって野球をやる場所でもあるのだけれど、のび太くんをはじめとする各キャラクターたちの居場所の一つにもなっているのが、あの空き地。
あの場所に行くことは、別の場所で起こったことを発散させるために利用することもあれば、感慨深く、入り込むためにも利用することがあります。
そういう家や職場や学校などとは異なった居場所としての存在を持つことがスポーツには可能だということです。
■ 雰囲気・空気(Vibes)
上で書いた居場所としての存在、にも繋がるのですが、実質的な意味でも、存在的な意味としてもそこに人が集まることによって空気感というのが生まれます。
例えば「おい、中島、野球をやろうぜ!」となったとして、「お、いいね〜!」と、中島くんが乗ってくれなければカツオは野球をすることができません。
それが中島だけではなく、いくつか重なった先に初めて野球というスポーツを楽しむことができます。
そこに至るまでには誰もが野球をしたいと思っているわけではないかもしれませんが、「あいつがやるのなら...」とか「もうこんなに人数が...」という具合に「この波に乗り遅れてはいけない」という気持ちも芽生えさせる気持ちの波を生み出すことがスポーツの良さとも言えます。
一度、その波の乗ることの気持ち良さを味わうことができた時には、なかなか忘れることができないぐらい、熱意を持つことができることも特徴ですが、その反面、冷めてしまった時の落ち方も大きいといえます。
■ 機会(Opportunity)
スポーツをやる上で、確実に「波」というのは存在します。
自分のリズムを相手がいようがいまいが関係なく刻み込めるようなノリノリの状態になることもあれば、相手が立たせる波をかき消すような働きかけをすることもできます。
個人で取り組むスポーツでも、団体で取り組むスポーツでも、それぞれにリズムというのが存在しますが、言い方を変えれば、「流れ」ということもできますね。
朝起きてランニングに出かける人は、起きてから走り出すまでのリズムがあり、そのリズムがノリノリになっている時にはスッと走り出せるかもしれませんが、そうでない時には思い走りだしになるかもしれません。
楽しむためにスタジアムやアリーナへ足を運ぶ際にも大切なことは、そんな一連の流れの中にある機会を掴むことに繋がります。
すごいプレーを見ることができた時に興奮することや、残念なプレーを目にしてしまった時の失望感、必死に応援を重ねる仲間たちとの一体感など、感情が一致する機会を味わうことができるのもスポーツの醍醐味といえます。
結局、感情ですよね
これらの条件は組織的なスポーツでも、個人で勤しむスポーツでも、享受できるはずで、それが僕が上で述べた個人の感情が跳ね返ってくることであり、それを受け止めるだけの器としてのスポーツなんだと思っています。
このキーとなり、圧倒的に重要となるのが「感情」です。
感情が上下左右にブンブンと振り回されるのがスポーツの良さであり、根幹的な要素だと僕は考えていますし、その醸成をできるかどうかがキモになると思っています。
つまり、個人の生活内のストーリーとスポーツ組織のストーリーが一致するような取り組みができるかどうか。
JリーグのJ1リーグでいえば1年間にホームゲームが17試合ありますが、逆を返せば17試合しかありません。何がいいたいのかと言えば、1年間に17日しか開かないレストランだと仮定するとどう思いますでしょう。
しかも、そのレストランは金額だけ決まっていて、何が出てくるのかはわかりません。美味しいと感じるかどうかもその人次第、といった具合。
だから、大事になるのは参加したいと思える場所であることもそうだし、ウズウズして早く行きたいという飢餓状態にも似た感情を抱かせることができるどうかで、それができた時に、そのレストランには大挙して人が押し寄せるでしょう。
しかし、大した期待感もなく、ただただ休みが多いだけのレストランだと思われたら、誰も足を運ぶわけがありません。
それは他のスポーツでも同様です。
そこに行くことが自分の生活にとってプラスだし、なおかつ、他の人にも自慢できるようなものなんだけど、敷居は別に高くない。
そう、ジャイアンに毎回怒られながらものび太くんがジャイアンズの練習や試合に参加するのも、下手くそな自分なりに「価値が見出せている」からこそ、参加するんです。
彼にとって、自らに向き合う貴重な「場所」であり、仲間たちとの大切な「空気感」を共有するための大切な「機会」なんですよね。
だから、スポーツには、その中に入る人たちの「感情」にこそ、本質的な意味での価値があるのではないか、というのが現段階での僕の結論です。
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