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目標が高いことはいいことなのか、というお話

魅力的なプレゼンテーションができること、そのプレゼンテーションをする上で使用する資料もシンプルでいて、キレイにまとめられ、MacbookをiPhoneや小さなデバイスを駆使しながら聴衆やクライアントを巻き込む話し方をして...

そんな風にできるビジネスマンになるのがぼくの中ではあこがれであり、目標でもありました。それがぼくの人生を豊かにするという目的を達成するための大切なマイルストーンであろうと思ってましたし、思い込んでました。

佐々木俊尚さんと糸井重里さんの対談記事の2回目から考えることができたことを書いていきます。

「ました」というだけあって、そんな目標はとっくに捨て去ってます。

別にそんな事ができなくても、目的としている豊かな人生を得ることは達成できそうだということがわかったことが一番。

そして、その高い位置にある目標を目指して行動することは、出来る人がやればいいかな、と思っていて、ぼくはそんなに遠くて高い場所にある目標を目指すことは肉体的にも精神的にも、これまで獲得してきた技能を照らし合わせても無理だということがわかりました。

無理だ、というよりも正確にいえば無理があるというのが正しいかもしれません。

高すぎる目標は足元を見えなくしてくれます。

自分が何者でもないことを自覚していたはずなのに、キラキラしている自分を目指すことが目的化してしまうことで、自分が履いている靴がガラスの靴であり、アンダーアーマーのランニングシューズではないことに気づけません。

だから、走ろうと思って走り出した際に、ポキっとヒールが折れてしまい、走れないなんてことがざらにあります。

結果として、走れないからついていけなくなり、精神的な疲労感と焦燥感で潰れてしまいます。

本当にやるべきことは、足元をきちんと確認しながら、自分の足で一歩ずつ歩んでいくことなのに、それができなくなってしまうのがキラキラした自分への目的願望です。

そういう姿に何度も騙され、打ちのめされ、打ちひしがれたことがあるぼくがいうのだから間違いありません。笑

そんな先のことなんて全く想像もできないし、想像すべきでもないんです。ただただ、自分の姿が見えなくなるだけで、それが本当に自分のしたいことで、目指すべき姿なのかを考えるべきです。

ぼくがしたいことというか、出来るようになりたいことってなんなのかといえば、そんなに多くはありません。

ただ、先端の技術や知識には触れていたいし、それが自分の生活に落ちてきた時にそれとなく順応していたい。

そしてぼくはスポーツが好きだから、スポーツを楽しむ人達が増えるようにしたいと思っていて、そのためには普通の人がそれとなく動けてしまう雰囲気を作りたいなぁなんて思ってますね。

でも、大それたことをやろうとはこれっぽっちも思っていなくて、出来ることを楽しみながら(ちょっとだけ苦しみながら)自分の責任のもとにやっていきたいなと思っています。

ぼくの責任のもとに、というところが重要で、あまりにも高すぎる目標設定は責任の所在がすごく曖昧になります。

本来、自らの行動に対しての責任は自らが負うのが当然なのですが、あまりにも高すぎる目標設定をした場合には自分で責任を賄えなくなってしまうため、責任を他人に押し付けようとします

「あの人はあのとき、なんでやってくれなかったんだ」とか「どうして助けてくれなかったんだ」とか「あの人は優しくない」とか「あいつがあんなふうにしなければできていたはずなのに...」など、ただの負け惜しみがずらりと肩を並べて勢揃いしてくれます。

こういった類の負け惜しみという名の言い訳は自分ではない誰かに向いており、その時点で自分の限界をとっくに超えていたことを物語る絶対無二の証拠となってしまうわけですが、それに気づけるのであれば追い詰められたりはしません。

それを「自分の力が足りないからだ」とむりやり納得させるのも違っていて、それをするぐらいなら目標の決め方を変えればよかっただけで、その過程に対しての理解が不足していただけです。

** 責任を持ってものを考えている人だったら、目標はどんどん低くなると僕は思っています。**

糸井さん、宮藤官九郎さんとの対談の中で、「あなたはいいね、目標が低くて」といったそうなんですね。

これこそ、まさに我が意を得たりだったわけですが、あまりにもたかい目標設定は自分の範囲を超えて設定されることがほとんどだと思います。

それは技能とか能力とか職能なんて言い方をする、直接“はたらく”ことに結びつくものも1つの指標ですが、精神的な素地や生活環境、家族なんかも「設定する目標値」には含まれることを忘れてる人がいるのではないでしょうか。

そもそも、ぼくたちは「仕事」と「生活」を上手に切り分けて生きているかといえば、そんな上手いこと二重生活みたいなことができる人なんていないでしょうよ、と思うわけです。

途中、佐々木俊尚さんもおっしゃってますが、そんな切り分けをしたほうがいいという雰囲気を作り出してしまったのは、自己啓発本の罠だとぼくは考えています。

いまって、自己啓発本とかも流行ってて、表面上はフワフワとした夢を語る人が多いじゃないですか。いっぽうで、実際には、ものすごく泥くさい仕事をやらなきゃいけないと薄々考えている人も多くて、そこのギャップが埋められない感じがします。

以前、エリック・バーカーの残酷すぎる成功法則についての読書感想文を書きましたが、基本的に自己啓発本の中身で書かれていることは、著者本人だからこその成功体験を追随する内容になっています。

けど、成功体験の再現ほど難しいものはありません。ここに一つの罠みたいなものが仕掛けられていて、高すぎる目標設定をしてしまう要素をはらんでいるとぼくは考えてます。

仕事も生活も切り分けで考えられない以上、全部同じ「わたし」であるはずなのに「仕事のわたし」と「普段のわたし」なんて形で分けてしまうというところに、そもそも無理が生じているのではないでしょうか。

その二つの「わたし」は同じというか違いがあるわけではなく、引き出される感情や言葉が状況的に変わっているだけで、別人格になっているという意味ではありません。もし、別人格に入れ替わっているような感覚があるのであれば、それはすごいことです。ぼくにはできません。

はたらくことに対して高すぎる目標設定をしてしまうということは、はたらくことの前提であるはずの生活もそれに伴って引き上げられるというか引っ張られることになるので、そのストレスが高まってしまう人は早々に参ってしまいます。

ぼくは色んな人の失敗談を聞きたいと思いますし、失敗の積み重ねの中で自分だからこそ見出せた"希望"みたいなものが成功なのではないでしょうか。

だから、まずは自分の生活を前提に、素直な気持ちで自分のしたいことや、できることを増やしていくのがいいんじゃないですかね。少なくともぼくはそんな生活がしたいですし、しようと思います。

何よりぼくは、ともに生活する子どもたちへ、世間的な雰囲気で流されるような高い目標設定なんてしなくていいし、正解なんて求めなくていいんだと失敗をする姿も含めて、見てもらおうと思います。

そんなお話でした。

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