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ローカルビジネスの意義深さと難しさ

僕の実家がそば屋であることはよく書いているのだけど、それだからなのか、割とローカルビジネスと呼ばれる、地域に根ざしたビジネスを営んでいる人たちを応援したい気持ちが強い。

"儲けること"と"稼ぐこと"は本質的に異なるのはなんとなくわかるかと思いますが、言葉の意味を理解すると納得感が出てくるでしょうから、読んでみようと思います。

[儲ける]
[動カ下一][文]まう・く[カ下二]《「設ける」と同語源》
1 金銭上の利益を得る。また、思いがけない得をする。「だいぶ―・けているという話だ」
2 子を得る。「子まで―・けた二人の仲」
3 夫・妻や義理の親などをもつ。
「似げなき親をも、―・けたりけるかな」〈源・帚木〉
4 病気などにかかる。
「財を失ひ、病を―・く」〈徒然・一七五〉
[稼ぐ]
[動ガ五(四)]
1 生計を立てるために、一生懸命に働く。「骨身を惜しまず―・ぐ」
2 働いてお金を得る。「学費を―・ぐ」
3 試合などで、得点をあげる。「打点を―・ぐ」「下位力士を相手に星を―・ぐ」
4 (「点をかせぐ」「点数をかせぐ」の形で)自分の立場が有利になるように行動をとる。評価を高める。「母の手助けをして点を―・ぐ」
5 (「時をかせぐ」「時間をかせぐ」の形で)都合のよい状態になるまで何かをして時間を経過させる。「支度ができるまで司会者が時間を―・ぐ」
6 探し求める。
「繁華の都へ出て奉公を―・ぎ」〈黄・栄花夢

僕が子どもの頃に仲間内で、思いがけずに金銭を手に入れたり、ラッキーさを表現するのに「儲け〜♪」と言っては誇らしげにしていたりしたのを思い出しました。いや、本当にどうでもいいんですけど思い出しちゃいました。ごめんなさい。

そこからも、子どもたちなりに意味はわかっていなかったながらも、自分が労を執ることなく金銭や幸運を手に入れることに対して、それとなく、どこからともなくインプットされていたんだなぁ、と思うと言葉のすごさを実感します。

”稼ぐ”が前提のローカルビジネス

ローカルビジネスを手がけようと思えば思うほど、その地域性や土着性を高めようと思えば思うほどに、「儲けよう」などと思えなくなるわけですが、それは地域性にコミットしようと思えば、どうしても論理だけでやろうと思っても難しい。

特に僕の住んでいた新潟県燕市も、現在住んでいる新潟市も、論理でビジネスを回しまくれるような都会とは異なり、それぞれの地域にそれぞれの感情を抱いた土着性の高い人たちが住んでいて、その人たちはロジカルシンキングとかクリティカルシンキングなんて言葉を生活の中で意識する機会はありませんし、普段の仕事を行う中で、そんな横文字をひたすらに使うような場面を作り出したりしません。

もちろん、全てとは言いません。

新潟の中には日本中に商品や製品を作って出し続ける企業もあれば、世界に飛び出ていくような商品や製品を作り出す企業だってあるわけで、それらの企業は日常的に都会の企業だったり、諸外国の企業とのやりとりが前提になっているからこそ、それらの横文字を活用しなければいけない場面もあるのかもしれませんが、全てではない。

相手にするのは地域に住む、隣近所の顔なじみのような人たちを相手にする機会が多く、その人たちを満足させるための手札や姿勢、態度を構築していくのです。

事業を長く継続できていくのであればいくほどに、その傾向は強くなるわけで、それはいいとか悪いとかって話ではなく、地域に認められている証拠であり、土着性が高まっているからこその姿とも言えるわけで、そこでは儲ける機会はありません。

棚からぼたもちのような商売ができるのかといえば、決してできません。

一杯600円のそばを売ったり、一つ150円のお菓子を売ったり、一回3,000円で髪を切ったりして、日々の身銭を"稼ぐ"ことで、自らの生活を支えていくのです。

ローカルビジネスでやるべきは、誰かから突然降って湧いて出てきて、明日からの生活がバラ色のように輝いて見えるような"儲かる"ものではなく、確かに隣にいる顔も見える人たちの満足する顔を提供できるよう、商売努力を重ねて手に入れることが叶えられる"稼ぐ"ものなのです。

やりがいと稼ぐことの難しさ

僕の両親が営んでいた飲食店事業であるそば屋も、子ども心ながら見てきた僕からしても、決して楽に儲けられるような商売ではありませんでした。

朝は早くに起きて仕入れに行き、帰ってきてからは店を開けるための仕込みを始め、そのままお昼の営業に突入します。

お昼休みがあるわけではなく、店を閉めている時間も夜の営業に向けて出汁を取り直したり、米を炊き直したりといった具合に仕込み再開させ、そのまま夜の営業へ。

夜の営業も上州屋のポリシーとしては、お客さんがいる以上は追い返したりせず、お酒を楽しんでらっしゃる常連さんがいれば、それに付き合って店を開け続けます。

夜中の1時や2時になることも決してないわけではありませんが、全てのお客さんが帰ってから店の閉め作業を行い、また翌朝を迎えるわけです。

効率的かと言われれば、そうではないでしょうし、今の時代であれば、もっともっと効率的にできる部分があるのだと思いますし、素人目の僕は他の業界を見てきたからこそ、改善点が両手で足りないぐらいには浮かんできてしまいます。

それでも、30余年ほど営業し続けてきた彼らの姿を見ていると、「それでいい」のだと思えたし、「それでよかった」のだと思っています。

それと同時に、単価が決まっているものを売り続ける、ある程度の相場感が定まってしまっているものほど、事業として継続・発展させることが難しくなります。

創業し、一から顧客をつくり、常連ができてくる中で生じてくるのは、ローカルだからこその人間関係をはじめとした感情的な関係性、要は好き嫌い。

『〇〇ではこんな風にしてくれた』

『だからお前もやってくれ』

『なんだその態度は!お前の店に足を運ぶなっていい回るぞ』

なんとなく田舎臭いですが、現実として“お客様は神様”だとした三波春夫の言葉を曲解した上に、なぜか自負して止まず、あまりにも自尊心が高まるあまり、神になろうとする人が出てきて、ワガママを言い出したり…

前提は、信用を売買することによって成立するビジネスであるはずなのに、いつのまにか自宅的な許容度合いを求められたりするわけで、長く継続していけるのは本当にすばらしいことだし、出来るのであればやっていくべきなのですが、継続した分だけ居心地を求める人たちが増えてきます。

それ自体は悪いことではなく、むしろ、ローカルな土地にしっかりと根付いている証拠であり、その地域に認められている証拠です。

でも、そこで毅然とした態度で公私混同に染まり切らない努力が必要になってくるわけで、それに疲れて挫けてしまった結果、お店から当初の輝きが失われた結果、客足が遠のき、お店をたたんでしまうことも。

お客さんになる態度として、金を払ってる、払うんだから何を言ってもいいなんてことはありません。そば屋の営業を幼心に見てきた僕は、そんな大人たちを侮蔑することしかできませんでした。

明らかに「金を払ってるんだから」という態度を崩さない、どうしようもない人間もいたのもハッキリと記憶に残っているぐらい、本当にカッコ悪い大人の代表格だと思ってます。

お店への尊重を失ってしまったら、その居心地のいいお店がなくなってしまう可能性だって大いにあるのに、です。

ローカルなビジネスは、確かに感情的なつながりが強固に築ける、築きやすいものですが、同時に、それな為に随分とすり減ってしまう可能性も存分にはらんでいます。

だから意義深い

商売をする、カッコよくいえばビジネスをするのは容易なことではありません。規模が大きくなればなるほどに、継続すればするほどに軸を据えながらも変化が求められます。

維持継続することは、変化に対して適応しているからこそ成立する偉業です。何も考えず、只々こなすだけの態度では維持することなど到底できません。

だから、地場に根付き、店を構え、しっかりと商売をするのは意義深く、それを認めているからこそ、人気店や名店など、それぞれ愛されるお店が誕生するのです。

これを読んでいただけた方は、ご自身の近くに地場で頑張ってる人がいる様でしたら、改めて応援してほしいな、と。

そんな風に思う次第です。


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