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『いい父親ではないけれど』 #えんどうnote #414日目

ぼくは自分のことを子煩悩な父だとか、イクメンだとか、そんな風にもてはやされるような「いい父親」ではありません。

「いい父親」ではない、と自分で述べるのも癪(しゃく)だけど、足りてない部分が多くあるのではないか、と考えているのは事実。

そもそも「いい父親」になるためには、基準を設けなければならないわけで、その基準って誰にとっての基準なんだろう、とか考えちゃうとジャングルジムならまだしもサバンナで、迷子になってました。

けど、そんなこと言ってたら彼らに投資できる時間が終わっちゃう。

彼らと濃密な接触を試みれる時間は限られていて、それは彼らとぼくが生きている以上は抗えない事実。そんなわけで諦めちゃいけないんだと気付きました。

気づいたついでに、「いい父親」ってなんだってことを書いていきます。

子どもとの時間は期間限定

これまでは、あんまり深くは考えないようにしてたんですけど、よく考えたら(繰り返しになってしまうのですが)「役割としての父親」を全うできる時間って限られてるわけで、悠長に構えてたら終わっちゃうんですよ。

子どもが自らの意志で自分に近づいて来てくれる期間なんて、彼らが生まれてから十数年あればいい方で、下手したら10年経ったら終わっちゃうかもしれない。

それは、彼らが精神的に成長してるって証なんですけど、生まれて間もないときから何もできない、一人では生きていけない時期を経て、歩いてたら自然と手を握ってくれるような時期をバツの悪いことに、下手に知ってるもんだからなくなってしまうと寂しい…。

ぼくは決してメンタルタフネスではないから、そんな風に考えてしまうのですが、なくなったらなくなったで楽しいのかもしれないなぁ、とも。

ただ、これは"その時々の楽しみ方がある"ってだけで、何も言わずとも信頼しきった状態で近寄ってきてくれる時間を設けてくれる態度に対して、きちんと向き合っていきたいし、その為にどうしたらいい・何をしたらいいのかってスゴく大切な設問だと思うんです。

その設問が『いい父親ってなんだ』。

別に母親でもいいのかもしれないけど、ぼくは立場としても性別としても父親なので、いい父親を追い求めたいですし、それをしなかった自分を想像すると後悔してる姿しか思い浮かびませんから、目一杯、何を差し置いてもやらないといけません。

環境を用意する際の閾値(しきいち)

“とりあえずやってもらう”って態度といえばいいのかもしれません。自分の範疇内で子どもの行動や思考を留めてしまおうとするのは「やってもらう」ではなく、「やらせる」になります。

「やらせる」とか「やらせてみる」ってのは明らかに上から目線の態度ですから、自分の範疇内で収まるようなやり方を子どもに教え、はめ込もうとする姿勢そのものです。

別に「型」を教えること自体は否定しません。運動動作の習得にしたって、観察から推察し、仮説の検証をした上で微調整を繰り返すのを考えれば、一定の流れを踏まえた「型」を知るのは大切なことだとすら思います。

そうではなく、自分の知っている「型のみ」を教え込み、その枠組みの中で子どもと活動させようとする人もいますが、それは可能性を提示しているのではなく、どちらかといえば危険性を提示するものではないか、と。

どういう意味かといえば、「〇〇だと△△ができない」なんて具合にできることの提示ではなく、できないことの提示を行うのですから、挑戦せずにいう通りにすることこそがすべてになってしまうわけです。

だから、ぼくは「やってもらう」と言いたいし、あくまでも友人みたいな態度でいろんな内容に対して意見を求めたり、考えを巡らせたり、共に映画を見たりさて、少しでも彼らがごとになれる機会を増やしていきたい。

自分の範疇から飛び出そうとする子どもの気持ちを止めることはもちろん、その気持ちを抱けるような環境を用意できるかどうか。

それが現時点でぼくが考える「いい父親」な気がしてます。

自信があるわけでも、確信があるわけでも、根拠があるわけでもありませんが、子どもたちと生活し、いろんな表情や姿勢を見てきた中で感じる本当に現時点で実感している予測や仮説みたいなものです。

答えあわせみたいなものをする気はないので、それがどうなのかを知る機会はないかもしれませんが、ひとまず、その姿勢を持って子どもたちに触れていこう、そう思うんです。


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