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時間の貧乏から抜け出したい

時間の貧乏

以前の記事にあるように、僕は現在、時間の切り売りをして生計を立てているような状態。

何かしら、けど確固たる成果物を提供し、その対価を受け取っているわけではなく、日々、時間を提供し、その中でできる範囲の成果物を提供することで対価を得ている。

その生活をする以上、子どもたちとの時間を確保するには至らず、故に悶絶する日々が続いている。

まずもって言えるのは、時間の切り売りでしか対価を得ることができない父親である僕自身を恨むしかない。

彼らとの時間はあっという間というレベルを通り越して全てが刹那的に過ぎていくし、その刹那的な瞬間を切り取るために写真を撮ったり動画を撮ったりして、なんとか思い出という奴をとどめておこうと躍起になる。

しかし、本質的にしたい・やりたいと考えていることは写真や動画で収めた姿を見ることではなく、彼らに対しての時間を用意した上で、刻々と変化する彼らの一挙手一投足を見守りながら、はたまた一緒に本でも読みながらという余裕のある時間を確保することだ。

そんなことを考えていると、時間に貧乏な状態とお金が貧乏な状態とでいうと「どちらがいいのだろうか」ということをふと思いついた時に考える。

時間貧乏で気づくこと

僕は以前に比べるとだいぶマシになってきているし、そうしたいと思っているからこそなのだけれど、時間貧乏がだいぶ改善されてきているように思う。

とはいっても、1日の中で1~1.5時間ほどなのだけれど。

その時間を自分に当てるのではなく、家族のために充てられるかどうかというゲームでもしているかのように、時間をどう切り崩すのかを考えながら日々を送っている。

上でも書いているように、僕からしたら本質的にしたいと思えることではないのだけれど、仕方ない。背に腹は変えられぬ。

「お金と時間、どちらの貧乏がいいのだ」と聞かれた時に、答えに窮する。第一、どちらか一方を捨てなければ得られないという状況自体が許しがたい。程よくしたい。

わがままなのはわかっているけれど、仕方ない。

僕の十分に満足を得ることができるのは、生活を共にする彼らと時間リッチを味わっている時で、それは揺るぎようがない。しかも、それは時限爆弾かのように残り時間が限られていることだ。

どういうことかといえば「しなきゃいけない」のと「しなくてよい」というのは「する」という選択をする上で似ているようで全く異なるもので、子供との時間でいえば圧倒的に後者が増えてくる。

0歳と5歳とでは生活をする中での手間のかかり方が全然違うし、本人の意思も異なる。これが5歳と10歳を比較してもそうだ、というよりも10歳ともなればさらに手間がかからなくなるだろう。

それが15歳、20歳と進めば風呂も一緒に入ることもなくなっていくだろうし、本を読んであげることもなくなるだろうし、意味のわからない遊びでゲラゲラ笑いあうこともなくなる。

ほら、圧倒的に残されている時間は時限爆弾を眺めているかのようだ。

確実に進みながら減っている。

僕のような時間貧乏ができることは彼らがきちんと食べれて、寝れる場所が確保できて...といった場所や物に対して毎日、毎月、毎年お金を支払える状況にしていくことだ。

そして気づく。

こうやって時間貧乏になるからこそ、世の中のトレンドやブームなどといったことに疎くなっていくんだということに。

それが嫌だからということよりも、こんな風に時間の切り売りしかできないのであれば、「何かが売れている」というのは時間に裕福な人たち、言い方が悪いけど暇な人たちが作ってくれたものに乗っかるしかなくなるんだ。

だから今の時代は、時間の確保をかけた個人戦争みたいな状態なのかもしれない。

けど、それだっていつまで続けるのか。

時間貧乏...

お金の貧乏もつらいけど、時間貧乏も嫌だなぁ、なんて思った今日。

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