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#スポーツの未来に僕たちができること の次なる動き

前回の #スポーツの未来に僕たちができること から1ヶ月以上が経ち、すでに僕の中でも懐かしい思い出のようになってきています。

それがいいのか悪いのかは別として、僕はあの日を機に行動を継続していくことを決めたことは以前の記事にも記している通り。

前回は「地方(個人)の可能性」を探る意味で地方創生という言葉にあやかり、地方にいる個人だとしても「思い」と「行動」を掛け合わせることで「共感」を得られるんだという過程をオープンにし、スポーツの未来に個人でも働きかけることができるのだということを示し、行動を促す機会としました。

次はそれを踏まえ、次々と行動する人たちが増えてくることを見越しながら(すでに動いて12/22にイベントを起こす人も!)、僕もワクワクするけど、きちんと考えられる機会を作りたいと思います。

次回の #スポーツの未来に僕たちができること は以下の3点をテーマにしたものを。

1. そもそも『スポーツの価値』とは

僕はスポーツがなくても生きていけるものだし、生活必需品ではない、という態度であることは、note記事でも09月23日の新潟経営大学でも述べていますし、おそらく、それが変わることは今後もないと思います。

ただ、スポーツは非常にEmotional(感情的)なものであること、つまり、感情が上下左右にブンブンと振り回されるという意味で優れたエンターテイメントであることは大きく認めているし、それが強みだとも。

言葉の語源から入れば、deportare(デポルターレ)というラテン語だといわれていることが定説化しているが、この意味は「ある物を別の場所に持ち去る」となります。

普段の生活で溜め込んだ不満や疲労を取り払う、どこかへ飛ばしてしまう、という意味で使用される「行為」を指す言葉として使われた、とされており、簡単に言えば「憂さ晴らし」。

ただ、その時代背景や情景によって、言葉の意味合いは大きく変容していくと考えると、適切なのかどうかも改めて考える必要があるのではないか、と思うわけです。

例えば、「死」という言葉も、江戸時代では乳幼児が頻繁に死んだことから平均寿命が低くなり30代ということになっていたが、それは生まれると同時に死が横たわっていたし、割と身近なものだったのではないでしょうか。

現代に置いて乳幼児が即座に亡くなってしまうということは、およそ考えづらいし、「死」というのは年令を重ねた末に「訪れるもの」だという認識が強くなっていて、生まれるのと同時に意識しなければならないものではなくなりました。

そもそも「死」という言葉に対する向き合い方が変わってきているのは確かで、日本の中では「終活」なる言葉や行為が生まれてくることも、それを表す現象なのではないかと思うわけです。

deportareが生まれた時代における主な人たち、労働者階級の人間たちが抱く「思い」が言葉となり、伝搬していったことから一般化し、現代に至るという経緯を経たのであれば(あくまでも憶測)、今の時代に適応するとなると「非日常」ということになると僕は理解しています。

つまり、感情が上下左右に振り回されるという「非日常の体験」を得に行くために橋渡しをするのが「スポーツの価値」なのではないか...と僕は思うわけです。

2. スポーツにおける『アスリートの価値』とは

アスリートという言葉の語源はギリシャ語の「άθλητὴς(athlētēs: アスレーテース)」だとされています。これは「競技会やコンテストの参加者」という意味で、身体を用いてそれらに参加する人たちのことを指していました。

ただ、今回、アスリートという言葉を扱う意味合いとしては「職業競技人」と「競技以外の職業を持ちながらスポーツに勤しむ兼業競技人」も含むこととする。

そして、その前提の上で"スポーツに向き合い、どこかしらの組織(クラブやチーム)に所属しながら取り組む人"であるアスリートは選ばれた人であることを付け加えた上で話しを展開していきます。

では「誰に選ばれるのか」。

チームの監督、その上にいるGM、スポーツディレクター...などなどクラブ組織内の選手編成に対して実験を握っている人たちに選ばれる、というのは最もな意見だとは思いますが、正解なようで不正解な気がします。

例えば、Jリーグクラブが地域密着を第一義にするというのであれば、クラブは地域のものとなります。地域のものである以上は、そこに土着する人たち、つまり、地域に暮らす人々のものであり、選手たちはその人達に選ばれているのだと言えますよね。

そして、Teamとは、地域の人たちが抱く誇りを体現してくれる選手たちの集まりであるということが第一義であり、それ以外の選手たちが集まってしまっているチームは、そもそものアイデンティティが地域と合わないため瓦解することになりかねません。

五勝出 拳一さんが『アスリートが高めるべき3つのVALUE』と題し、プレイヤーズVALUEとマーケティングVALUE、そして、ストーリーVALUEの3つについて言及されていますが、それが(Jクラブの場合は)地域とマッチングされている選手であればあるほどに愛され、讃えられます。

アスリート自身が自らの価値に気づいて、それをうまく活用できることが結果的に社会的な価値をもたらすのではないか、と僕は考えていることもあり、その社会的な価値ってなんだ、ということも含めて考えてみます。


3. 多様性のある社会で『スポーツ』の在り方は

diversity(多様性)という言葉を耳目する機会が増えてきています。

例えば、いわゆる「健常者」と「障害者」の違いはなにか、ということを考えるわけです言い方によっては差別的な表現になってしまいかねませんし、生活をする、という意味では同等であり、そこに価値の優劣があるわけではありません。

多様性の高低によって異なる人たちがいるんだということは、標準的な大量生産的なマインドセットだと受け止めきれませんし、現実に受け止めきれない人たちもその存在を直視しなければならない時代になってきたといえます。

時代が時代であれば、視力が悪い人というのは障害者だ、というのは有名な話ではないでしょうか。しかし、技術の進歩によって、メガネやコンタクトレンズが普及することでいまではその認識はありません。

いわゆる「健常者」と「障害者」の違いというのは、技術的な進歩によってなくなっていくといえるわけです。

現代に生きる人たち全般がそのように認識しているのかといえば、それはないのかもしれないけど、それは現代社会の技術進歩が遅れているだけで、当人たちの問題ではないでしょう。

低視力という視覚的多様性の高い人がメガネを手に入れることによって得るのは「標準化」です。

現代でバリアフリーと言われる車椅子が登りやすいようにスロープを付けましょう、など、いわゆる健常者たちの上から目線で「用意してあげる」ことがなんとなく良いことであるという雰囲気があるけれど、その前に前提認識として技術進歩が遅れているだけ、といえる認識を持つだけで態度が変わるのではないかなぁ...なんて僕は思うわけです。

僕なんかはよく耳目する話なのですが、バリアフリーの「バリア」を設けているのは誰なのかを今一度考えるべきではないか、ともいわれているわけです。

そして、その中でスポーツは、ありとあらゆる多様性を飲み込めるだけの可能性を秘めていると僕は考えています。パラリンピックという多様性が満ち溢れている大会を目のあたりにすることができる僕たちはそれを知っているわけです。

僕は、近い将来、パラリンピックがオリンピックのダイナミズムを凌駕する時代が来るだろうと真剣に思っているし、実際問題として、パラリンピアンがオリンピックに出場し、一定の成績を残していることを踏まえると、十分に有り得る話だと考えている。

では、スポーツが果たす多様性溢れる世界での役割とはなんなのでしょうか。それについても考えてみましょう。

スポーツの可能性は拡張性

スポーツはただのエンターテイメントに留まらず、Storyの可視化が可能な点で、大きな大きな可能性が横たわっています。

それが瞬間的に何倍にも膨れ上がっていく様は、他のどの世界のエンターテイメントを見渡しても見ることができない、非常にダイナミックなもので、それを一度味わってしまうと忘れられなくなるキケンな果実ですらあります。

そのダイナミズムを活かすことは、いろんなカタチで可能なはずで、スポーツの未来に僕たちができることの第二回目は上記の3点から、その拡張性について考えていきたいと思います!

ちなみにゲストは...

また後日発表させていただきます!

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