ふらっと思った"フラット"について

思いついたタイトルが完全にあれだった。。

はるかぜちゃんこと春名風花さん(@harukazechan)の記事から着想してかいてます。当該記事を未読の方はお読みいただければ、と。

そのうえで、このテキストを読んでいただけるとお互いの思考が絡み合う機会になろうかと思います。

彼女の言説は常に一本筋が通っていて、心地いいです。まだ小学生だった頃にアカウントを開設して、運用をしていた彼女が懐かしいですが、はっきりいって、ぼくはそんな彼女の発信内容を見ていて面食らってました。

ちなみに、バシッとガチで頭をぶん殴られたのかと思うぐらいに、ぼくに深く突き刺さった投稿はこちらです。

この軸を彼女は運用開始直後から貫いていて、その姿勢や態度はブレることなく、ものすごくカッコいいんですよ。ツイッタランドのなかで、そんなん見てるもんだから、必然と「人との関係性」について意識します。

それまでのぼくは、どうしても年齢をはじめとした上意下達のヒエラルキーを大切に、というかその認識しか持てなかったんです。恥ずかしいことに。

本を読むごとに、あらゆる価値観というか、認識感があることに触れ、凝り固まっていた自分の認識を刷新しなければならないと思ったところから、どこか開放されたような気持ちになり、こう思うようになりました。

フラットでいたい。いや、フラットであるべきだ。

べき論として使うことの方が近い、というかべき論として人の関係性はふらっとであるべきと、ぼくは思うわけです。どんな立場の、誰であろうとも。

タメ口を使うとか、そんなコミュニケーションレベルの話ではなくて、マインドセットというか態度というか姿勢というか。ん~。。

あ、「向き合い方」が適切な気がしますね。向き合い方にしましょう。

たとえば、話したこともなければ、ネット上で絡んだこともないような人に対し、「お前さ」なんて話しかけ方をする人は、ものすごく失礼な気がします。(少なくともぼくは少し驚きます。自分ができないから。)

逆に、何年も経つ付き合いをしているのに、相手の言葉や行為を受け止めた上で、自分の意見を発するような、「尊重を前提」に接してくれる人を「丁寧な人だなぁ」などと思うわけです。ぼくはね。

はるかぜちゃんが上の記事で、議論をする場に「年齢」を持ち込むことやそれを盾にすることも、年齢からマウントすることや相手を小馬鹿にしたように褒め称えることはやめるべきだし、本質的でないとしています。

双方の「意見」、そこからの「議論」に対し、きちんと向き合いたいのであれば、それを乗り越えることができなければ、受容からの許容や、多様性の享受だなんてことは夢のまた夢だ、なんて理解をしてます。

ぼくもこの意見には大いに賛成で、年齢や社歴をはじめとした〇〇歴によってヒエラルキーを振りかざす人は一定数いて、そういう人たちはいわゆる先輩風が好きな人たちだと感じています。

ちなみに、ぼくはまったく気にしないというか、むしろキライなので、相手に求めることは一切ありません。というか、それが無駄だと思ったのでやめることにしました。

つまり、ぼくもそういうことをしていたのです。その時のことを思えば、かなり大きな後悔をしていますし、それを受けていた人たちには大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。

年齢フィルターを振りかざす人の特徴として、ぼくがコレまでに感じた傾向は以下の通り。

・経験談は最高の美談となる

・相手が自分と同じような年収幅であれば年齢フィルターを有効活用

・相手が自分よりも社会的な知名度が高くなると近寄らなくなる

など。

要は相手に対して年齢や学年でマウントできるポジションに安寧な気分を味わっているだけ。議論も、年齢が上であったり、学年が上であったり、〇〇歴が長い人間の意見が尊重されるものだ、と前提している。

そうじゃないだろう、ということは日頃から思っていることで、基本的に年齢だとか体格だとか立場だとか、そんなことでしか人のことを評価できない事自体が恥ずかしい、なんてぼくは考えてしまいます。

恥ずかしいというか、しなくちゃならない道義はないですよね、と。

糸井重里さんは著書、『インターネット的』の中で、インターネット的世界の中の特徴として、リンク、シェア、フラットを挙げています。

はるかぜちゃんが上記の本を読んでたのかどうかはわかりませんが、ネットの世界について述べていることは同様のことです。

ただ、これはネットの世界だけの話ではなく、ぼくたちが生身で体験し続けているリアルな人間関係においても同様のはずなんです。

ネットの世界観が、リアルな世界観を覆い尽くすのかどうかがいつ来るのかはわかりませんが、ぼくの中ではすでにそうなっており、おそらく、そんな認識を持つ人たちが多くなればなるほどに、いわゆる“常識”みたいなものが変わっていくのでしょう。

よくよく考えたら、決して難しいことでもなんでもないのだと思うのですが、一度構築した価値観を崩すことに抵抗がある人にとってはハードルが高いのかも知れません。

高いのかもしれませんが、関係性がフラットな世界観が前提になっている人が存在する、なんてことは事実な訳ですから、まずはその人たちを受け入れることから始めてみるだけでも変わっていくのだと思います。

まずは受け入れること、受け入れた上で相手との間に溝があるのであれば、その落とし所を探すこと。それがどうしても埋められないのであれば、距離を置くこと。

それでいいんじゃないでしょうか。

ぼくたちにとって、時間は有限です。限られた中でどう生きるのか、が求められる訳ですから。

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