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勉強をする意義

人は、年齢がいくつになろうが関係なく、学ぶ機会を設けられます。

養育者には義務教育は教育を受けさせる義務が生じ、それを被養育者である権利者として行使するかどうかの判断を子どもたちが行います。(正直、この言い方が現実的な物言いになっているのかどうかは難しいです。)

学べるのは子どもでけではありません。

大人でも「学ぶ機会は常にある」わけですが、それは何も大学院大学へ通いMBAを取得しなければならないわけでもないですから、たとえば本を読むことでも得られるものはあります。

読み進める中で、内容に引っかかる語句や文言などがあれば、それを調べるだけでも十分に勉強になるはずで、その機会を対内的(自己完結的)につくるのか、対外的な環境に求めるのかは人によるのかもしれませんが、誰にとっても時間は平等に与えられており、それを行使するかしないのかは権利者たる本人次第。

なぜ、僕がこんなことを書いているのかといえば、不登校Youtuberとして一躍有名人となってしまった(あえて「なってしまった」と書いていますが、その)ゆたぼんが「勉強」について #アベプラ で取材を受けた際の肉声を聞いたから。

僕は彼がYoutuberとして活動するのは問題ないと思っていますし、学校に行きたくないのであれば、行かなくてもいいでしょう。

そもそも、それは養育者たる保護者、権利の行使者である本人が、相互に意見を出し合った上で決めるものですから、他人である僕やそれ以外の人がとやかく言う必要性も必然性も一切ありません。

僕も過去に短いながらも不登校を経験した身として、結果的にどうであれ、不登校を選びたくなる気持ちは少しぐらい理解できるつもり。

「親が」通わせる / 「子どもが」通う

僕はそもそもコミュニティとして学校のあり方に恐怖感すら覚えています。

閉鎖的な環境の中に規模の多寡はあれど、おおよそ30名から40名ほどの本当に小さな社会が形成され、そこから爪弾(つまはじ)きになってしまった場合、その理由はどんなに些細なものであったとしても、小さな人格が人生に絕望してしまうのを知っているから。

僕と生活をともにする子どもたちは全員、現在は保育園へ通っておりますが、長男は来年度から小学校へ通い始めます。

たとえば、小学校へ通っている中で「学校へ行きたくない」というのであれば、きちんと理由を聞いてからではあるものの、基本的には反対せずに受け止めた上で「行きたくなければ行かなくていい」というつもりです。

こんな話をしたら、子どもに対しての教育義務を果たす果たさない云々と頭でっかちな知人に言われた記憶があるのですが、子どもに教育を受けさせる義務はありますが、それを権利として行使したいと思っている当人の意思が明確な場合には反対しません。

しかし、当人の意思が教育を受けてもらうのに不十分な環境であるのだと判断できる場合には、その意ではありませんし、代替的な環境を用意できるのであれば、特に問題はないと判断します。

子どもの教育については、こちら側(養育者側)の態度や姿勢について問われ続けるのだと理解しているので、正解を求めずに意見を交えつつ、相互補完しあえるよう努めていこうと決意しているところです。

大人だって勉強したい

では、大人が勉強をしたいと思った場合にはどんな方法があるんでしょうね。以下にリンクを貼っているTK工房さんが書いたnoteか感じ取れる物がたくさんあり、これは誰にだってできる再現性の高い学習の機会のお手本だと言えます。

具体的なことを言えば、大人である以上は他人に対しての「お願い」する言葉を持っているはず。

それであれば、まずは自分の興味や関心のある分野で仕事をしていたり、仕事をしていなくとも詳しい人や詳しそうな人に教えを請えるはずで、教えを請うことがかなえば、少なくとも現状の「何も知らない自分」より詳しくなるのは間違いありません。

何も知らない自分よりも詳しくなったとして、何かを学ぶ機会を設けるのであれば、伝達する機会も設けた方が良いでしょう。

インプットとアウトプットは常にセットで併せ持っておく姿勢は、学ぶ上での必須条件だと言えます。

別に誰かに話すでもいいでしょうし、その誰かは家族でも友人でも恋人でもいいでしょうし、子どもに対して噛み砕いて説明できるのであれば、それがいいかもしれません。

とにかく自らの知的好奇心を充足させたのならば、それを蓄積させるだけでなく、発露させる機会を設けるべきです。

最悪、どこにも発露する場所を設けられないのであれば、noteでもなんでも構いませんので、まとめ、書きましょう。とにかく自分の体の中から出してしまいます。

自分の耳から入り、脳幹を通って脳に蓄積され、感情に揺さぶりが生じ、興奮した結果、鼓動が早くなったり、筋肉がこわばったり...知的欲求は満たす情報に対して身体的・精神的な呼応(こおう)が生じた内容を書き留めるのです。

それによって自分の意見が出来上がるかもしれませんし、出来上がらないかもしれませんが、整理はできるようになるため理解が促進されます。そこからさらに学ぼうとする気持ちが芽生えるでしょうし、もっともっと深掘りしたくなるでしょう。

国語や数学、理科、社会といった学校教育の中で学習指導要領に則って進められる内容は、人生を豊かにしてくれる要素の一つだと、僕は考えます。

コップに半分ほど水が入っている状態を表現するのに、国語的な表現であれば「ガラスでできた透明な容器に、半分ほど透明な液体が入っている」とか数学であれば「容器の体積が○gのコップの中に〇〇dlの水が入ってる」だったり。

「コップに入っている透明な水を表現する」って大した内容でもないものが、知っている内容が多ければ、そして、深ければ深いほどに表現の幅が広がるわけで、その背景を知ることにもつながります。

大人になったからといって、学びをやめる必要はないですし、少しでも多くの興味が持てているのであれば、そちらにものの数分でも時間をこしらえるだけでも、後々は大きな変化に繋がるかもしれません。

子どもに対してもそうで、正解があるわけではありませんが、勉強をする意義をこんな風に説明していけるようにはなっていたいものです。

そう言えば、ゆたぼんの学校への意見に対し、太宰治の文章を引っ張ってきたMC SHIRATAMAさんのツイートを貼るの忘れてました。

ちなみにカルチベートの意味は以下。

cultivate[動](他)
①〈土地を〉耕す,耕作する,開墾する.
②・・・を栽培[養殖,培養]する.
③〈才能など〉をみがく,高める,洗練する;啓発する.
④〈友情など〉を育む,深める;・・・と積極的に交わる.

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