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誰でもない誰かはいないけど、誰かになれない誰かはいます

<羨望の眼差しってやつ>

「あこがれの人」とか、「カッコいいな」と思う人、「あんなふうに出来たらなぁ」なんてことをサラッとやってのける人っています。います。

なんでそんな風に思うのかといえば、自分ができないとか、苦戦していることとか、うまく出来ないなぁ...なんてことを、サラッとやられちゃうもんだから「頼りになるなぁ...」という気持ちから羨望の眼差しを向けますよね。

僕なんかしょっちゅうです。

12年以上前に思い描いていた自分は、思い悩むことや人が思い悩むことを即座に解決のできるスーパーマンを想像していたし、そうなることが当然のような気もしていました。

なんていうか「理想の自分」ってやつでしょうか。

年令を重ねてきたなかで「できること」と「できないこと」の境界がハッキリしてきたと感じていますし、その「できないこと」に対しての出来なさ具合がホトホト気に病むぐらいになってきて、さすがに凹むわけです。

けど、それ以上に自分ができることを注力できる環境を整えた方が効率がいいし、たしかに作業とか業務の内容にもよるけれど、とにかく「できる」イメージの強いものを取り組んだときにはすぐに終えることができる。

だから、得意なことを優先順位を高くし、時間を稼ぎ、できる限り苦手なことに極力時間を割けるようするしか解決方法が見当たらなくて、結果、「がんばる」って結論づけます。

だからダメなんでしょうけど、それしか解が見当たらないのが実情って感じです。

<理想の自分って誰だ>

理想の自分、というやつについて考えてみたのですが、理想の自分は本当に自分なのか、ということ。

特に苦手なことにフォーカスをして、苦手なことができるようになった自分を理想値として定めたときに、疑問が生じます。

その苦手なことを指摘し、責めてくるのは誰なのか、と。

それでいえば、自分ではないことが多く、他人から叱責を受けたり、注意を受けたりした上で、その苦手な部分を認識するに至るわけですが、それを埋めるべきなのか、それとも別のことにあてるべきなのか、という点で少し考えなければなりません。

なりません、というか考えてみたのです。

そもそも、あらゆる組織というのは、資金が潤沢にあるわけではありません。資金が潤沢にあるわけではない中で、人を雇い入れるということにも対価を支払う以上は資金が必要なわけで。

業務の「Aが得意だけどBが苦手な」太郎さんと、「Aが苦手だけど、Bがすごく得意で上手な」次郎さん、がいたとします。

「資金的にどちらかしか雇えない」という場合が多いと思いますが、その際に、どちらを雇って、その後、それぞれが苦手とする分野についてはどうやって埋めるべき、か。

すごく悩みます。

けど、ここで言えるのは、人をスキルの塊みたいにして評価してしまうと、それは人を見ているのではなくて、スキルを見ていることになります。

そりゃ、組織が成長することは、そこで働く人たちの賃金を引き上げることにもつながりますし、スキルで評価し、そのスキルを磨いてもらって、さらに組織の発展に寄与してもらったほうがいいとは思います。

けど、苦手なことをやらされ続けること、それを指摘され続けることって、そんなに嬉しいことではありません。

苦手なことは苦手なことなりに、個人努力によって、一定程度できるようにはなりますが、得意で「好きだ」と前向きに取り組める人と、不得意で「嫌いだ」と感じながら取り組まざるを得ない人では大きな差が生じます

そこを理想としてしまった場合、それは誰なんでしょうねぇ、というのが今回のお話です。

<自分は自分でそれ以上でもそれ以下でもない>

もちろん、注意をしてくれる人の存在は非常にありがたいですし、大切な存在です。僕も人並みとは言いませんが、それなりに生きてきた中で、ご意見くださる方々の大切さが身に沁みてます。

ただ、その意見に引っ張られすぎることは、本当に「自分」という存在ありきの話なのか、それとも組織都合を優先された上でのスキルのみに焦点を当てられた話なのか、ということを考えなきゃいけないのかなぁ、なんて面倒なことを考えます。

理想は、それぞれが得意だと思えることを、それぞれに果たしながら、横のつながりで解決していくってのが理想なのかもしれませんが、なかなかそうはいかない、というのも理解はしてます。

理解はしてますが、納得はできない。

割と、人のダメなところって目につきやすいけど、逆によくできるところって指摘というか、褒めるというか、評価というか、ことばは何がいいのか、というところですが、なかなか言ってもらえませんし、言えません。

なぜなら、よくできるところは組織都合だと「当たり前」になってしまうから。

それができる、ということを条件に対価を支払うなんて契約になっているわけですから、「それが会社組織というものだ、えっへん」みたいな態度でも致し方がないのかもしれません。

僕は「それでも」って言いたい。

上で書いた太郎さんも、次郎さんだって、それぞれに得意なことがあって、それをやってもらってる時にはニコニコとうれしそうに取り組んでくれることが多いでしょう。

反対に、苦手なことを取り組んでる時には難しい顔をして、苦しそうに取り組んでることが多くなるでしょう。

得意なこと、といっても、他人から見たら足りないと見えることもあるでしょうし、そんな意見なら喜んで受け取れるのはよくわかります。反対に、苦手なことの中でも、「おぉ、よくできたね」なんてこともあるわけです。

そのどちらも、太郎さんだし、次郎さんなんです。

「得意なことだけど足りない」ことや、「苦手なことだけど出来た」こと、それぞれを評価されて、どう受け取るのかというのは、それぞれだとは思います。

いわゆる理想の自分っていうのは、他人からの評価云々ということよりも「自分が納得できるところまで考えているのか」ということは大切な気がしてますし、そこまで考えているのか、ということを言いたい。

あくまでも主体は自分であるはずで、他人ではないはずなのに、いつの間にか理想とする自分が他人からの期待に応える自分になってしまうことは、本当にそうであるべきなのかどうか、と。

けど、それがうれしい人もいるかもしれませんね。そんなこといったら、ここまで書いてきたこれってなんなんだろうって話になるんですけど、ね。

他人から求められることができるようになることが理想の自分になることなのだとは思えないけど、そもそも理想の自分を目指す、というのもなんだかおかしいのかもしれないなぁ...なんて思い至りました。

ごめんなさい。笑

長くなったので、また考えます。

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