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道元の教え|ものの二つの状態

すでに世尊なるはかならず密語あり。
密語あればさだめて迦葉不覆蔵あり。
百千の世尊あれば百千の迦葉ある道理を
わすれず参学すべきなり。
|正法眼蔵・第四十五「密語」

元になっている伝承は、世尊(ブッダ)が、集まった百万聴衆(←誇張でしょうけど)の前で、ただ一本花を拈ってみせると、迦葉が一人笑ったというもの。花がいわば世尊の秘密の言葉で、迦葉ただ一人が秘密の覆いを取ることができたというのが〝ふつう〟の解釈で、語られる言葉だけが言葉ではない、沈黙も言葉である、という〝禅宗的〟態度につながっていく。

驚く読者もいるかもしれないが、道元は禅宗を認めない。「仏々正伝の大道をことさら禅宗と称ずるともがら、仏道は未夢見在なり」(正法眼蔵第四十四・仏道)。諸仏が正しく伝えてきた大いなる道をことさら禅宗と呼ぶ輩は、仏道を夢にも見たことはあるまいと。しかもそれは禅宗と「称する」かどうかの問題に留まっていない。以心伝心・不立文字(文字を立てず、心を直接伝える)という禅宗のスローガンに、「正法眼蔵」を書くというプロジェクト自体が「非」を宣告している。

とすると、上に引用した一節はどう理解すればいいか。細部を無視して大まかな構図で眺めてみると、ここには世尊/迦葉の対比があり、それが密語/不覆蔵の対比に重ねられている。不覆蔵とは覆い蔵(かく)さないという意味だ。つまりこれは Closed/Open のペアであると言っていい。仏法は二種の状態をとりうる、と道元は述べているのである。二つの状態とはなにか?

武野紹鴎 1502-55 は茶の湯の極意として、藤原定家の

見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮

を挙げたという(飯島照仁『ここから学ぶ茶室と露地』)。和歌と茶道という、一見無関係なものどうしがなぜ「極意」を共有できるのか。それは極意という、見ることも触れることもできない、したがって "closed" なものを、まず定家が和歌という言語技術によって展開してみせた。それはその言語を使う誰にでも、少なくとも「読める」というレベルで伝達可能な、つまり "open" な形式である。紹鴎も読んだ。何度も何度もこの和歌を口ずさむうち、秋の夕暮に元の "closed" な意が透けてみえるようになる。それを取り出して彼は全く別の open な形式に再展開してみせた。

極意が伝播するためには、一旦、具体的な形に開かれる必要がある。開かれた形式でしか、極意は他者に伝わらない。それを受け取った他者は、再び、予想もつかない形式に極意を埋込む。こうして、開と閉の拍動が世界の全身を貫いて拡がる。

藤原定家 1162–1241 と、道元 1200–1253。十三歳で道元は出家したとはいえ、二人が互いに存在を知らなかったとは思えない。いや道元の父・源通親の館の庭でことばを交したことぐらいはあっておかしくない。父も兄も歌人、特に兄は新古今和歌集の撰者の一人なのだ。少なくとも二人が同じ文化的環境に居たことは確実だ。「花」も「紅葉」も永く和歌世界の絶対要素だった。それなしに和歌は詠めなかった。定家は詠んだ。正法眼蔵冒頭の「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし」は、仏法における「秋の夕暮」ではないか。

しかし問題は、定家と道元のあいだに影響関係があったかなかったかではなく、closed/open という考え方のフレームを道元が持っていたことを確かめたいわけである。というより、気がついてみれば確かめるまでもない浦のとまやの秋の夕暮なのだ。それは正法眼蔵のまさに第一巻の標題が物語っている。「現成公案」。仏法(公案)は closed なものだ。それを open にする=現成させるのが、正法眼蔵の使命と道元は承知していたという動かぬ証拠である。

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画像:横須賀美術館エントランスブリッヂから海を望む。設計=山本理顕

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