「道元」を世界に届ける
『正法眼蔵』は道元の制作した、人類の至宝の一つと呼ぶべき作品です。至宝だけに、やすやすと到達できないよう、複雑な鍵が何重にもかけられています。それを一個一個はずしていくのが注釈者の仕事と言っていいでしょう。僕はこの仕事を誇りに思っています。薄暗い半地下の作業場で、今日もルーペとピンセットを手にミクロの戦いを続けていると、突然ドアが開いて、振り向くと、体格のがっしりした鋭い目付きの音が立っていました。男は言いました。
「あんたに、頼みたいことがある......」
「わかってるよ。いま、それをやってるところだ」
「鍵を開けるのは......俺がやる......」
「え?まさか.......銃弾でこの鍵をすべて開けるとでも?」
「その銃弾を作ってほしい.....」
「い、いつまでに?」
「明日までにとは言わない。だが......なるべく早くだ......」
と言い残して、作業台の上に札束を置くと、男は出ていきました。札束の厚さは 50mm ありました......
–––というような幻を見て、なんとか作ったのがこれです。
男との暗黙のルールにより、全容はここではお見せできませんが、「はじめに」と「目次」だけを公開します。
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はじめに
本書は二人の仮想読者のために書かれた。
一人はアブー萬周、ウイグル族出身の寿司職人見習いである。仏教に興味があって、休日になると近郊の寺を巡る。かれは学校で習う知識とは異質な知的体系があることを何となく感じていて、その一つが仏教ではないかと漠然と思っている。ただその具体的内容にまだ触れたことがない。無理もない、仏教の解説書が洪水のようにあるので、かえって本物の一滴が見分けられないのだ。本書がその一滴であれば申し分ないが、一滴になる前の1cc を精製したつもりではいる。専門用語には必要なかぎりの説明を付けた。アブーには、ただゆっくり読んでほしい。一気飲みしても味はしない。
もう一人は台湾生れの小青(シャオチン)。仏教学のプロを目指している。彼女はあまたの経典に通じ、最新の研究成果にも目を配ること怠りなく、さらには世界の諸宗教に関して基本的な知識をもち、哲学、数学、絵も上手いという才女である。そんな万能を誇る彼女だが、一つだけ、しかし簡単には克服できない弱点がある。それは、仏とはけっきょく何であるか、何のために仏はあるのか、仏なしで仏教は書けないのかという、最も根本的な問いを避けていることだ。これはプロにありがちな欠点ではある。しかし小青とて、アマチュアの心をまだ忘れ去ってはいないはずだ。本書で初心を思い出してくれればしめたものだ。
『正法眼蔵』は仏法の書である。北インドから中央アジア、中国、朝鮮、そして日本へと伝えられた伝統の終点にある。日本人はどうやら、伝統を創始することは不得手だが、洗練することにかけては抜群のセンスをもつらしい。仏教が日本の、それも最高ランクの言語の技をもった職人の手に渡った。職人の名は、道元。半生をかけてインド産・中国仕様の原材を切断し、組み直し、そして磨き上げた。その結果、誰も見たことがない仏典が姿を現わした。もはや仏典というカテゴリーすら要らないかもしれない。分類不能の美しいテキストが、いまここにある。世界はこれを見たいだろう。見せたい。
見せるための設(しつら)えをつくるのが注釈者の仕事だ。すでに設えはかなりの数つくられている。しかしそのどれも、作品に相応しいものとは思えなかった。そこで一から自分で図面を引き始めた。何年かかってもいい、すべての設えを単独で作り上げようと思った。それは今考えれば、無謀というより錯覚だった。一人でドリブルしてゴールしようと思い描いていた。あるとき、その戦略は遅れているとわかった。一人のマラドーナより、途切れることのないパスの軌跡を描き続けることが必要なのだ。
ここで目指すのは、『正法眼蔵』七十五巻の全体を視野に入れつつ「仏性」の巻一つを選び、狙いすました一本のパスを、敵味方入り乱れるゾーンの裏にふわりと入れてみることだ。もちろん90分間走りつづける脚力(唐宋代漢語の知識)や、逆サイドを駆け上がる長友をとらえる視野の広さ(仏教外の知識)も、欠かせない武器ではある。だがそれは注釈者なら出来て当たり前だ。当たり前を越えていくパスを、適当なスピンをかけ、殺到するディフェンスの前に、沸騰するスタジアムを横目に、不倒の距離を走って、未踏の地で待つ道元に通すから見てろよアブー、小青。
目次
𝐈 仏説微塵経 失われた仏典を求めて
第1章 世界の外部
仏説微塵経
第2章 鏡の中へ
𝐈𝐈 跳訳仏性 仏説微塵経で読む道元
第3章 仏性・跳訳
第4章 仏性・注解
一切衆生 邪計 周氏の女 龍樹 南泉の茶堂にて 狗子無仏性
終章 人類史の中の仏教
「工学の書」 あとがきに代えて
跳訳 道元 仏説微塵経で読む正法眼蔵
2017年8月21日 第1刷発行
著者|齋藤嘉文
挿画・カバーイラスト|富澤大勇
装丁|矢部竜二(BowWow)
発行者|中川和夫(ぷねうま舎)
印刷・製本|ディグ
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