散歩をする理由

散歩が好きだ。田舎で育ったので、幼い頃からよく歩いていた。田んぼのあぜ道を歩いたり、ガマの穂を指でつついて全身綿まみれになったり、海辺をひたすら歩いて疲れたら自販機で500ml100円のレモンのジュースを買って飲んだりしていた。遊ぶという行為にお金がたくさんかかると知ったのは大学生になってちょっとだけ都会の広島市に越してきてからだ。

角から角へ、目的地を決めないままに歩く。時間も気にしてはいけない。複数人でおこなってもよいが、一人だとなおよい。

右足と左足を交互に繰り出す。機械的なテンポではなく、あくまで気ままに不安定なテンポでやる。手足の動作にリソースをほんの少しだけ奪われた脳は考え事に適している。歩きながら一つのことを考えたり、自問自答したり、過去の出来事を思い出したりする。

この「歩きながら行う思索」が散歩の醍醐味だとずっと思い込んできた。このために、自分は意味もなく歩くのだ、と思っていた。

しかし、歩けど歩けど、すばらしいアイデアがでることはなく、結局、似たような考えに着地してしまう。これでは幾分か気分がいいだけで、部屋で悶々と考え事をしているときと結果は変わらない。

あの角を曲がったとき、ふと日陰に入ったとき、散歩中の犬とすれ違ったとき、季節の移り変わりを肌で感じたとき、小学校のチャイムの音が遠くから聞こえたとき、かわった字体の看板を見かけたとき...なにがきっかけになるかわからないが、頭の中がすっと切り替わることがある。先ほどまで考えていたことがバカらしくなる、逆に、どうでもいいとおもっていたことが重要なことのように思えてくる。練りに練ったアイデアはゴミと化すし、捨てようと思っていたアイデアが突然かがやきだす。

脳の中身がまるでかわってしまう。恐ろしい体験である。この瞬間の前と後では景色が違ってみえる。そこにある散歩道は同じものなのに。頭のなかにだけ風がふいている、この瞬間が好きだ。

良い景色を探すためでもなく、お気に入りのお店を見つけるためでもなく、考え事をするためでもなく、頭のなかに風をふかすため、そのためだけに、散歩をしてみよう。

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