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誰のために咲いたの

「どうせ、いつかいなくなるんだ。わかりあえないんだ」
里佳がそう言ったのは、
ミニチュア・ダックスフントの新之介を
正式に家族に迎えた日のことだった。

父親としては複雑な気分だった。
里佳は犬が大好きだったはずだが、
これは、親の離婚への異議申し立てなのだろうか、と。

確かに、母親がいなくなる事態は
彼女にとって最悪の展開と言ってもいいだろう。
仕方がなかったんだ、という言いかたをするのだけは避けたいが、
正直ほんとうにそうとしか言いようがない。

実際のところ、妻は、
つまり里佳の母親は不貞の果てに出ていった、ということになるのだが、
そんなことは里佳に説明できない。
だが、なんとなくわかっているのだろう。
わたしは捨てられた、まではいかないが、
置き去りにされたとは感じているのではないか。

それを不憫に感じたぼくは、犬が大好きな里佳のためにも、
新しい家族として犬を飼おうと考えたのだ。

新之介と名づけたのは実はぼくではない。彼は保護犬だ。
動物愛護団体がセンターから引き出してきた、
推定五歳のミニチュア・ダックスフントの男の子。
新之介という名前はその頃から呼ばれていたものだ。
なぜ新之介なのかは聞いていないが、いい名前だなと思った。
けれども彼は、ひどい虐待にあっていたようで、
人の手をとても怖がっていた。

そんな子がうちにきて、だいじょうぶなのだろうかと思ったが、
どうにもほうっておけない感じだった。
新之介は噛みつくわけではなかった。
ただ、ひどくおびえていた。

ぼくなら著述業なのでいつも家にいる、ということが
愛護団体から譲渡されるきっかけになった。
最初からペットショップで購入することは考えなかった。
以前、保護犬関係の書籍を執筆したことがあり、
犬を飼うなら保護された子を譲り受けたいと思っていたからだ。

保護犬と暮らすには、正式譲渡の前に、トライアルという制度がある。
そこで適性を見て、問題ないようならば
晴れてその子と一緒に暮らせるようになる。

もちろん新之介もトライアルの時期があった。
家に来て、家族のように一緒に過ごす。
今から考えれば、その頃から里佳はあまり
乗り気ではなかったかもしれない。
どうしてなのか理由はわからない。
いや、理由なんていくらでも考えられるのだ、たぶん。

だって彼女は「いつかいなくなるんだ。わかりあえないんだ」
と言っていたのだから。

しかし、それでも新之介は月日が経つたびに明るさを取り戻し、
犬として当然の自我を獲得しつつあった。
里佳も最初の頃のような反発は徐々になりを潜めて、
新之介を可愛がり、世話をした。

ぼくは思った。なんでも決着をつけてから進むのではなく、
いろいろなことを、むしろうやむやにしたまま前進することが
とても大事なことなのかもしれない。
父親なんだから、マッチョぶって、
なにもかもをその都度ぶった斬ればいいというわけでもないだろう。

それでも――わかりあえないという里佳の言葉は、
ぼくの心の表面にずっとへばりついていた。
わかりあえない。人と動物はわかりあえない。
あるいは人と人も。そして、みんないつか、いなくなってしまう。

* * *

新之介を迎えてから三年が経った。
里佳は高校進学を控えていたが、
変わらずに新之介の散歩にも出かけていた。

「里佳、パパも一緒にお散歩に行くよ」
ぼくはそう言って、急いでスニーカーの紐を結ぶ。
「別にあわてなくていいのに」
「いや、夕焼けがきれいだからさ。急がないと陽が沈んじゃう」
「……パパってそういうロマンティックなところがあるよね」
「そうかな? ロマンティックかな」
「まあ、いいと思うけど」

ぼくたちは丘の上にある、見晴らしのいい公園まで歩くことにした。
新之介はとてもよろこんで、短い足で坂道を駆けあがった。
まだまだ元気いっぱいで、健康そのものだった。
金色に輝く清潔そうなロングコートの被毛が揺れた。
ぼくはその光景を見ながら、しみじみとうれしくなった。
追いかけるように息を切らしながら走る。
里佳はちょっと躊躇しながら、
歩こうって言ってたじゃない、と後ろのほうで声をあげながら、
駆け出した。

丘の上の公園は黄金色の世界だった。
夕方という時間も相まって、
光り輝く銀杏の木は荘厳な雰囲気を醸し出していた。

あたりには誰もいない。
新之介の息遣いと、自分の心臓の音だけが響いているような静けさだ。
無人のブランコが風に揺れている。
太陽は沈むのをためらうように、ゆらゆらしている。

「きれいだね」
里佳がそう言った。
「ほんとうだね。来てよかった。みんなで来てよかった」
ぼくはそう返事をした。
「まあ、ママはいないけどね」
里佳がためらいがちにそう言った。
「――里佳」
「うん? ああ、たいして意味はないよ。なんとなく言ってみただけ」
「ごめんな。パパは……」
里佳は足下の枯葉を踏みしだいた。
それから新之介に手をのばし、彼の耳を触った。
新之介はうれしそうに里佳の手のひらを舐めた。

「ねえ、パパ。あたしね」
「うん」
「新之介がやって来た時に、ちょっと拗ねたでしょ。
あたしが、なんて言ったか覚えてる?」
「……もちろん」
「どうせ、いつかいなくなる、わかりあえない」
 里佳が言った。ぼくは彼女の目を見つめた。

「あたしね、ママがいなくなって、ほんとうに悲しかった。
そりゃいろいろ大人の事情があるんだろうけど、
あたしを置いていっちゃうんだ、と思った。だからね」
里佳はそこで息を吐いた。
あたりはだんだん薄暗くなってきていて、
初冬の冷気がぼくたちにまとわりついた。

「はじめからなかったことにしたら、楽ちんかなって。
もちろんママの存在自体を消し去ることはできないから、
たとえば、ママのあたしに対する愛――とかね」

ぼくは黙って聞いていた。実際、何も言えなかったのだ。

「新之介がやって来て、この子だって、あたしと仲よくなんかないし、
人間と動物なんだから、わかりあえるわけないじゃんって思った。
だって、ママの愛がはじめからなかったってことにしちゃうと、
あたしの新之介に対する愛なんて、
もちろん最初からないってことになるんだよ」

里佳の大きな瞳からぽろぽろと、涙がこぼれた。

「でも、でもね、あたしは新之介が好きになっちゃったんだよ。
この子なしじゃいられないくらいに。
『星の王子さま』に出てくるキツネみたいに。
これが愛情じゃなかったら、何だっていうの? 
ママもそんなふうに、あたしのことを思っていたの? 
こんな気持ちになったの? 
どうしてこんなに、何かを好きになると、せつなくなるんだろう。
ママの愛がはじめからなかったなんて、
嘘でももう言えなくなっちゃった」

ぼくは足下にいる新之介を抱き上げた。
そして左手で里佳の肩をぽんぽん、と叩いた。

「里佳、人と犬はわかりあえるかな?」
「わかんないよ、そんなの」
「ぼくはこう思った。わかりあえる、と。
人と人が理解しあうのとはまた違うやりかたで。
今はっきりしたよ。
そしてそれは、人と人がわかりあうという前提があってこそなんだ」

* * *

里佳が細い腕ををぼくの腕に絡ませた。
教会の扉が開き、暗闇に光のほこりが舞いはじめる。
一歩進むと、里佳の大好きな人がふたりいた。

ひとりは彼女のこれからの正真正銘のパートナー。
なかなか凛々しい青年だ。
もうひとりも、ある意味では彼女の未来の相手だった。
今までの音信不通を帳消しにするくらい
心のこもった泣き笑いのその表情は、
端から見ても、どんな角度からでも、完全に里佳のためのものだった。

「ママ、ありがとう」
里佳がぼくと腕を組んだまま、そう言った。
母親は、ぷるぷると顔を横に振った。
そして、ぼくは新之介のことを思い出していた。

新之介は一年前に死んでしまった。
最後の半年は、ぼくたちのことがわからなくなるくらいに
認知症を患っていた。
円を描くように歩き回り、吠え続け、トイレを失敗し、
昼間は寝ているのに、夜中に起き出すようになった。

里佳はそんな新之介に驚くほどのやさしさで接していた。
何が起きてもすぐに対応できるように、
リビングに布団を敷いて、そこで一緒に眠った。
新之介が不安になって吠える時も、
彼を膝に乗せて、背中を撫でてやった。
あの美しかったロングコートの被毛は、
ところどころ抜け落ちて、みすぼらしい風体になっていたが、
里佳はこれまでよりずっと愛おしそうに、
新之介を忘れないように、この感触を自分の人生の宝にする気持ちで、
彼に接していた。

新之介の最期は、里佳の膝の上で迎えることになった。

彼は、里佳を見上げて、少しだけ舌を出した。
里佳は右手を新之介の口元に持っていった。

新之介は彼女の指をぺろん、と舐めた。
それはとても満足そうな行為に見えた。
しかし彼の舌はからからに乾き、もう二度とそれが潤うことはなかった。

* * *

つまり、ぼくたちは、学ぶことができる。
新之介が虐待され、人を信じられなくなり、
けれども徐々に明るさを取り戻し、
最後には大好きな人の膝の上で旅立ったということ。

わかりあう、というのはこういうことだ。
一言一句がすべて通じあうことではない。
それはむしろ瑣末なことに過ぎない。

何を考えているのかわからなくても、
相手のことを思い、手を差し伸べる。
ぼくたちの理解というものは、それしかありえない。

里佳の母親は、不実の相手と別れていた。
その後で、彼女は自責の念にとらわれて、自殺未遂まで起こした。

それを知ったぼくと里佳は、彼女のもとを訪れた。
母親を救いたい、その一心だった。
きっと、人生のある段階ではてらいもなく、
そういうこともしなければならないのだ。

母親は自分が許されることなどない、と思い込んでいたらしいが、
ぼくたちは暗闇だけではない毎日を過ごし、
自分たちの居場所というものを持っていた。家族がいる場所だ。

一緒に連れていった新之介が母親の顔を舐めた。
彼女はそこで堰を切ったように大声で泣き出した。

ぼくは今ひとりで暮らしているが、さみしくはない。
里佳はしょっちゅうやって来るし
(彼女の飼い犬、ミニチュア・ダックスフントのペロンといっしょに)、
ごくたまにではあるが、
里佳の母親、ようするに元妻とデートもしている。
おもしろそうな映画を見つけた時など、彼女を誘う。

そしてまた、保護犬の情報をチェックしている。
もう少しだけ、ぼくにできることをしたい、と考えている。
なにげなくつけたラジオから、知っているメロディが流れてきた。
誰のために咲いたの――あれ、そういえば誰の歌だっただろう、と
ぼくは思った。


「どうしてこんなにも犬たちは
犬からもらったたいせつな10の思い出」
www.amazon.co.jp/dp/4879197297
https://books.rakuten.co.jp/rb/14661539/

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