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「まだ」可愛くないあの子のために



風が涼しくなってきたある夜のこと。

ぼくは時雨(愛犬の名前)の散歩途中で、
ショッピングセンターの外のテラスに座っていた。
月はくっきりとしていて、秋になるんだなあ、と季節を感じる散歩だった。

「すみません…ちょっといいですか?」

声をかけてきたのは年配の女性と、
高校生くらいのその息子さんらしきふたり。
足もとの時雨をちら、と見て、
「触ってもいいですか」と言って、
ぼくがもちろん、とうなずくと、手を伸ばし、下あごに触れた。
犬が好きそうな人たちだ。

「じつはうちにも3か月のフレンチブルドッグの子がいまして…
それがほとほと手を焼いていて。
私たちをすごく、噛むんです。
もう…眠れないくらいにまいってしまって」

時雨はこの親子に撫でられてごきげんだ。

「とにかく噛むんです。痛いし、どうしたらいいんだろうって…」

実は、時雨もそうだった。
これがあま噛みというのなら、
本気噛みはやばいよな、と思うくらい強いものだった。
子犬は容赦がない。
憎たらしく、そしてとびきりかわいい。

「そのうち…噛まなくなるんでしょうか?」

対処法はいろいろあるのだろうが、
ぼくが施したやりかたをかいつまんで話した。
少なくとも時雨はそれでうまくいった。
いまでは人の手に歯を当てることすらない。
「アウト」と言えば、口にくわえているものを放すこともできる。

これはいざというときに、
誰かを守る、ひいては時雨を守るために、
絶対に必要なトレーニングだったと思う。
ドッグトレーナーに相談してみるのもよい。
根気よく、あきらめずに続けることがなにより大切だ、と
目の前の親子に、ちゃちな先輩風を吹かさぬよう控えめに、
けれども少々熱っぽい口調で訴えた。

「それでも…子犬ってかわいいですよねえ」
ぼくは追伸のようにそう言った。

その時、女性はなんとも微妙な、
言いよどみを持て余していた。
どう答えてよいのかわからないみたいだった。
そしてそんな自分を恥じているようにも見えた。

「それでも」かわいい、というのは
犬と暮らすうえで原理原則ではあるけれども、
そこを強迫的にするべきではないだろう。
いつでもどこでもかわいいと思わなければいけない、
まるで蓋をかぶせるような無理やりな思い込みなんて、
続くわけがないじゃないか?

つまり、そんなものは犬のためにならない。
犬のためにならないことは、
めぐりめぐって自分のためにもならない。

正直でよいのではないだろうか。
いまは「まだ」かわいくない、だって噛むから。
でも、噛まないようになったら、たぶんかわいくなってくると思う。

きっと、愛しつつあるのだから。

その子との未来を想像することそのものが、愛しつつあるということだ。

愛しつつある、それでいいような気がする。
そのための努力は惜しまない。いつの間にか楽しくなってきた。
進行形の「好き」が犬暮らしの醍醐味だったりするのである。

親子は満足そうに時雨を撫でて、
「かわいい」と言った。

「…きっと離れられなくなりますよ」
とぼくは言った。

女性がにこっと笑って、ぼくらは別れた。
1年後、また会えたらいいなと思った。
もちろん親子の傍らには、
時雨に似たクリームのかわいい女の子がいるにちがいない。
ちょっとあま噛みもあったけどさ、
だいぶ言うことを聞けるようになったよアタシ、とでもいうような。

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