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『鉄鍋のジャン』エンタメに振り切るということ

異端の料理マンガ、鉄鍋のジャンを一気に読んだ。いやー、異端だった。主人公の秋山醤は「料理は勝負だ」をポリシーとしており、料理対決に勝つためなら手段を選ばない。ここが完全にぶっ飛んでいるのだ。

秋山が料理対決で勝利するために取った行動をいくつか紹介しよう

・対戦相手のスープと相性の悪い料理をあえて作り、先に自分の料理を審査員に食べてもらう
・マジックマッシュルームを食材にする
・火柱をあげて調理し、作動したスプリンクラーから自分の料理だけを守る
・ウジ虫を潜り込ませた肉を、何の説明もなく食べさせる。

こんな料理マンガがあっていいのか、こんな主人公がいていいのか。

秋山の人格は”欠落”なのか

料理対決への姿勢だけでなく、秋山の日頃の言動もなかなか酷い。いい料理を作るということに対しては見事にスジが通っているものの、働いている職場の人間にも嫌われるようなことを平気でいう。ダチョウ対決を行うにあたっては、ダチョウ牧場に忍び込み、ダチョウを盗み、殺害し、その肉で研究を始める始末だ。

鉄鍋のジャンを読み始めて最初に思ったのは、秋山の人格は、作品において乗り越えるべき”欠落”として描かれているのかな、ということだった。主人公の人格に欠ける部分があり、対決や仲間との交流を通じて成長し、その欠落が埋まる。これはよくある物語の構造である。

それを示唆するかのように、主人公のライバルポジションにいる五番町キリコは「心の料理」をポリシーとしている。秋山に欠ける資質を持っているわけだ。

このキリコに手痛い敗北を喫し、ジャンが調理対決の対戦相手ではなく、料理を食べる人間の幸福を意識するようになる…考えられる王道の展開はそこにあった。

しかし、この作品はそんな生易しいものではなかった。ジャンはジャンのまま、最後まで暴れ続け、挑み続ける。最終盤、ついにレジェンド的な料理人、五番町睦十が胸を貸してやると対決を受けてくれる。

「おお、遂に手痛い敗北を喫し、秋山に変化が?」

期待に胸が膨らむ。しかし、睦十は対決直前に高齢での無理がたたって死んでしまう。なんのこっちゃ…

明らかに人格面で未熟な主人公が、周囲にとがめられつつもそれを貫き通し、壁にぶち当たることなく完結する。物語の構造としては異端な作品である。

最近は、物語の奥にある普遍的なメッセージを汲み取る、ということに注意をしていた。鬼滅の刃はトラウマの話が、チェンソーマンは教養と自由の話が含まれているな、という読みかただ。しかし、本作ではそのような普遍的なメッセージは汲み取れない。完全に読者を楽しませ、驚かせるために書かれている、純度の高いエンタメ作品だと言えるだろう。

絶妙のバランス感覚

ここまで書いた内容だと、荒唐無稽というか、物語としての完成度が低いという印象も受けるかもしれない。しかし、読んでいる分にはメチャクチャ面白かった。

料理対決の緊張感、次の瞬間に何が起きるかわからないワクワク感もあったし、秋山が突飛な方法で勝つたびに「そんなのありかよ」と苦笑してしまう。

この作品を読んでいて、不快感よりも楽しさが勝ることにはちゃんと理由がある。性格の悪いライバルや、横柄な審査員の存在がまずは大きいだろう。

秋山の対戦相手の多くは、「こんなやつ秋山に負けちまえ」と思えるような言動をとってくれる。だから、秋山がやりたい放題で勝つ様子に、ズルは良くないとか思う前に、「よくやった」と思ってしまうのである。

そして、なんといっても、秋山最大の敵である審査員の大谷が、とても愚劣な人格で描かれている。こいつが秋山に罵倒されたり、ゲテモノを食わされたりするのが痛快なのである。そして周囲の目もあり、屈辱に震えながら秋山に高得点をつけざるを得ない場面には確かにカタルシスがある。

また、五番町キリコの扱いを間違えなかったことも重要なポイントだ。秋山と対照的なポジションをとる、「心の料理」の五番町キリコ。料理を食べる人たちのことを考え、心を砕いて素晴らしい料理を作る、秋山のライバルである。彼女が秋山に敗北し、罵倒されてしまってはさすがに不快感が勝ってしまう。

だから、秋山とキリコの対決は、「キリコが得点で勝ったけど、本当の意味で秋山は負けていない」とか、「秋山の食材がパニックをまき起こしたせいで大会自体が中止となってしまった。しかしどちらもすごい料理だった」という形をとり、決着をつけないのである。

作者は秋山というキャラクターを大いに暴走させつつ、読者に不満がたまらないように上手に作品を料理していたといえるだろう(ドヤァ)。


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