差別発言を叩いて気持ちよくなっているだけでは、何も解決しない

2020/07/09の日記

れいわ新選組の大西つねきさんという方の「高齢者の命の選別」発言が一部で※1物議を醸しています。

発言内容についても、それに対する批判が妥当であるかどうかについて何ら意見を表明するものではありませんが、こうした差別的発言が社会的立場の高い人からなされたときに必ずと言っていいほど、批判する人間が表れるという現象には注目したいです。

以前も書きましたが、私たち社会に生きる人間は植松被告の問いに対して何ら満足のいく回答を出せていません。

「差別的思想は誤りだ」
「社会的弱者にも生きる権利はある」

こういった思想の正当性は揺らぐことがありません。
なぜならば、それは揺るぎなく正しいからです。

しかしまた、この社会はそうした思想が実現していないのもまた、事実であると思います。

完璧に平等で理想の社会など実現しません※2(だからこそ理想に向けて闘う必要があるのだという意見には賛同しますが)。

どんなに自らを平等であると思っていても、必ず差別的思想はあるのです。

例えば、男女平等であったり、女性の性的な差別に対して敏感な人がいます。
その人たちは、独身のおじさんが虐げられていたときに果たして同じ熱量を持って闘ってくれるでしょうか。
闘いませんよね。

選挙も終わりました。
社会を変えるために選挙に行こう!などという妄言を吐く人間が多くなりつつあるTwitterに呆れています。

選挙で変えられる枠組みなどたかが知れています。

本当に社会を変えるのは力であり、暴力ですよ。

…実現してほしいとは、思いませんが。


※1 こういう発言に反応する人間というのは本当に社会のごくごく一部です(しかも大抵は同じ人間であることが多い)。世間一般で言えばこうした問題は見向きもされないことが多く、一部の人間が毎回同じパターンで叩いて、勝手に気持ちよくなる…という事象は繰り返し見られる。

※2 「誰も犠牲にならない、誰もが幸せな社会を作るべきであり、それは作れる」という主張が最近のインターネットで多く見られるようになってきたことには要注意。そんな社会は実現しない。その社会が実現するならばそれは「犠牲を誰かに押し付け、それを見て見ぬ振りをする社会」であると定義できると考える。

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