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BUCK-TICKのパレードは続くーー5人が描いた音楽の旅とその轍を辿る



1987年9月21日、群馬県で結成した5人組ロックバンド、BUCK-TICKがライブビデオ「バクチク現象 at THE LIVE INN」でメジャーデビューした。
メンバーは櫻井敦司(Vo)、今井寿(G)、星野英彦(G)、樋口豊(B)、ヤガミ・トール(Dr)。
音源ではなく映像作品という当時でも異例のデビュー作と、髪の毛を逆立てたヴィジュアルで注目を集めたが、新しいものに敏感なバンド好き、音楽好きの間では、その前からすでに一目置かれる存在だった。

1987~1991

バンド結成

左から 今井寿(G) ヤガミ・トール(Dr) 櫻井敦司(Vo) 樋口豊(B) 星野英彦(G)

1984年、スターリンのコピーバンドとして始まった前身バンド・非難GO-GOを経て、同年夏にBUCK-TICKと改名。1985年春に星野、樋口が高校を卒業したことを機に、本格的に東京進出に乗り出した。
8月に東京・新宿JAMで初の東京ライブデビューを果たしたが、3カ月後の11月に新宿JAMで行った自主企画“BEAT FOR BEAT FOR BEAT vol.1”で前ボーカルが脱退。それまでドラマーだった櫻井がボーカルを志願し、実弟の樋口に半ば強引に上京させられたヤガミが加入する。
12月の同イベントvol.2で、現メンバーでの初ライブが行なわれた。このメンバーチェンジによってバンド内は転換期を迎えたが、思うように客足は伸びなかった。

翌年に入り、活動を広げるためには音源が必要だと考えたメンバーは、自主制作のレコード作成のため、ヤガミの伝手を頼りYAMAHA日吉センタースタジオでレコーディングを開始。ほぼ一発録りで1stシングル「TO - SEACH /PLASTIC SYNDROME Ⅱ」を仕上げた。
後に渋谷屋根裏の公演を観に来たインディーズレーベル・太陽レコードの社長と出会い、10月に太陽レコードから今作をリリースすることになる。

1987年、無謀だという声も多い中、豊島公会堂でのライブが決定。
“4月1日 豊島公会堂 バクチク現象”
と書いたステッカーを制作し、東京の街中に貼って回るという奇策を敢行した。
4月1日、インディーズアルバム『HURRY UP MODE』をリリース。
今作はアナログ盤と同時に、2曲追加した形でCD盤も作成。当時のインディーズシーンにおいて、この『HURRY UP MODE』は初のCD作品となった。

そして同日の豊島公会堂公演はステッカー作戦が功を奏したのか、前売りでは400枚ほどしか売れていなかったチケットが、当日に400枚売れ、800名を動員。この画期的な現象を目の当たりにして、音楽業界が放っておくわけがなかった。

メジャー契約と特異なデビュー戦略

すでにBUCK-TICKにアプローチしているレコード会社は何社もあったが、この公演を見て「絶対にやろう」と心に決めたのはビクターエンタテインメントのディレクター・田中淳一氏だった。
彼は1986年9月に行なわれたイベント“太陽祭”に、他のバンド目当てで新宿LOFTを訪れたのだが、出演していたBUCK-TICKを観て圧倒されてしまった。
「当時観たバンドの中でダントツに下手だったBUCK-TICKに、誰よりも惹かれてしまった」
後にインパクトの強かった第一印象についてそう語っている。
BUCK-TICKと契約を交わしたのは、6月16日“BUCK-TICK現象II at LIVE INN”公演でメジャーデビューを発表した2日後のことだった。

BUCK-TICKの持つ世界観はいつもどこか“少し未来”で、テクノやパンク、ニューウェーヴなどをルーツにしたサウンドは、ロマンティシズムとエロティシズムが漂うハードポップ。美しさと過激さを併せ持つヴィジュアル。新しい時代にフィットする存在だった。
ビクターは彼らを“ヴィジュアル・アーティスト”として売り出すことに決め、ビクター・インビテーションより、1987年9月21日ライブビデオ「バクチク現象 at THE LIVE INN」でメジャーデビューを果たす。

田中氏はデビューに際し、2年でシングルではなくアルバムを3枚出そうと提案。
“イメージチェンジしないこと/メンバー5人変わらないこと/プロデューサーをつけないこと/すべて自分たちで演奏すること”。
BUCK-TICKから出されたメジャー契約する上での条件に基づき、メジャー1stアルバム『SEXUAL×××××!』は、スタジオミュージシャンやプロデューサーを起用することなく制作された。

11月21日に発売されると、オリコンチャート最高位33位を記録し、新人バンドの1stアルバムとしては期待値の高い結果だったが、その評価は芳しくなかった。
インディーズ作品『HURRY UP MODE』では会心のバンドだと持ち上げられたが、メジャーにいった途端に「魂を売った」「下手だ」と手の平を返されてしまう。
しかし、そんなことを気にしていられないほどのハードスケジュールにメンバーは追われるようになる。

年が明けるとすぐにメンバーはミニアルバム『ROMANESQUE』の制作に取り掛かった。デビュー前のデモテープ用に録っていた「SEXUAL×××××!」「MOON LIGHT」「ROMANESQUE」の3曲の中で、1stには入らなかったが評判のよかった「ROMANESQUE」を形にしたかったためだ。
ちなみに、収録曲の「HEARTS」は、彼らをモデルにした同名の少女漫画にちなんで生まれた楽曲で、漫画に出てくるバンド名“BLUCK-TLICK”名義で1月24日に新宿LOFTでシークレットライブも行なわれている。

『ROMANESQUE』で当時の持ち曲をすべて出し切ってしまっていたため、次作『SEVENTH HEAVEN』は短期間に新曲を作らなければならない状況になった。十分な時間を当てられなかったメンバーは、それまではほぼ一発録りだった制作スタイルを、リズム隊が一緒に録った後にギターを入れていくという、いわゆるオーソドックスなレコーディングのパターンに変化させる。
また、今作にはSOFT BALLETの森岡賢氏がキーボードで参加。
今作はオリコンチャート初登場3位、最高位2位を記録する。

快進撃の始まり


多忙を極める中、アルバム『TABOO』のレコーディングを初めてイギリスで行うことになる。
イギリスの音楽に多大な影響を受けていた彼らだが、十分な準備ができないまま渡英。プロデューサーのオーウェン・ポール、エンジニアのウィル・ゴスリングからスパルタなレコーディング指導を受けることになる。そこではドラムのサウンドメイクや、スタジオフロアではなくミキシングルームでギターやベースの録音を行うなど、後のBUCK-TICKのレコーディングスタイルに大きな影響を受けたという。

帰国後にはすぐに“SEVENTH HEAVEN”ツアーがスタート。ホール公演は増えたため、“どう聴かせるかではなく、どう見せるかが大事”と考えたメンバーは、このツアーからステージにひな壇を起用。遠くからでもメンバー全員が見えるようにという現在に通じるステージの配置が確立された。

ツアー中にリリースされたメジャー初のシングル「JUST ONE MORE KISS」は、ビクターのCDラジカセ“CDian”のテレビCMに起用され大ヒット。
メンバー自身も出演し、「重低音がバクチクする。」というキャッチコピーと共に話題を集めた。

その実績が認められ、その年の「第30回日本レコード大賞」で新人賞を受賞。この年はBUCK-TICKがお茶の間に広く知れ渡った年だった。

1989年1月18日、満を持してアルバム『TABOO』をリリース。
ダークかつ硬質なサウンドはシーンでも異彩を放ち、初のオリコンチャート1位を獲得する。
BUCK-TICKは名実共にトップ・アーティストへと駆け上った。

その翌日にはツアーのファイナル公演として初の日本武道館公演2daysを開催。1日目はアルバム『SEVENTH HEAVEN』の楽曲を中心に、2日目はリリースされたばかりの『TABOO』を中心としたセットリストが組まれた。

今井寿、逮捕

人気絶頂の中“TABOO”ツアーがスタート。充実したツアーを回っていたメンバーだったが、4月21日、LSD使用による麻薬取締法で今井が逮捕。これによりツアーは中止となってしまった。
メンバーは動揺つつも、改めて音楽/バンドに向き合う。何度もミーティングを重ねていくうちに、新しいアルバムが作りたいという欲求が生まれたという。
これまでの過密スケジュールから一転、取材や撮影など他の仕事も何も入らないこの期間で制作に集中する。

7月には共同記者会見でバンド活動に言及。メンバーは、
「BUCK-TICKはこの5人のメンバーでこそBUCK-TICKであり、他の誰にも代わりは務まらない」
と宣言し、結束の固さを見せた。

そして、ニューアルバムのレコーディングがスタート。
『TABOO』でエンジニアを務めたウィル・ゴスリングをロンドンから迎え、全作よりもさらにダークで退廃的な作品に仕上げた。

タイトルは『惡の華』。

今井が謹慎中に読んでいたシャルル・ボードレールの詩集のタイトルから名づけられた今作。この時期は今井の負担を軽減しようと考えたメンバーが意欲的に作詞に取り組んだ時期で、星野作詞の「PLEASURE LAND」や、ヤガミ作詞の「DIZZY MOON」が収録された。

東京ドームでの完全復活

復活ライブとして12月29日東京ドーム公演が大々的に告知されたが、その9日前に彼らの地元である群馬音楽センターで、復活第一弾ライブ「バクチク現象」を開催。
事件後、全国で最初に彼らに会場を借してくれたのがこの群馬音楽センターだったそうだ。そのおかげで他県の会場も借りられるようになっていったのだという。

そしてメジャーデビューからわずか2年3カ月、BUCK-TICK初の東京ドーム公演を開催。
以降、12月29日には武道館公演などスペシャルなイベントが継続して行われている。

華々しい復活劇を見せたBUCK-TICKは、その勢いのまま新しい年に突入。
1月24日リリースのシングル「惡の華」、2月1日リリースのアルバム『惡の華』、共にオリコンチャート初登場1位を獲得。さらに4月1日にリリースしたアルバム全曲ビデオクリップ集「惡の華」もビデオチャート1位となり、「惡の華」で三冠を獲得し不動の人気を世に知らしめた。

そして3月からは全国ツアー“惡の華”がスタート。“TABOO”ツアーで中止になってしまったところを優先的に巡り、約4カ月にわたるツアーは大盛況のうちに終了した。
8月には“惡の華”ツアーの集大成として西武ライオンズ球場(現ベルーナドーム)と大阪駅西コンテナヤードで初の単独野外コンサートを開催する。

制作の充実と母の死

『TABOO』『惡の華』の2作でBUCK-TICKが目指すサウンドの方向性や、ダークな世界観を確立しつつあったが、サウンドメイクにおいてメンバーはまだまだ模索している状態だった。
その様子を見たディレクターの田中氏は、ニューアルバムの制作にレコーディングエンジニアとして比留間整氏を招聘。彼との出会いにより、BUCK-TICKのサウンドは劇的に変化を遂げる。
それは今井の頭の中で鳴っている音像が、リアルに具現化されていく感覚。一曲一曲スタジオに入ってから、頭の中にあるイメージに近づけていく作業を行なっているうちに、トータル800時間が今作のレコーディングに費やされたという。

そうして産まれたアルバム『狂った太陽』でサウンドは大きく変化し、収録曲のほとんどの作詞を櫻井が担当。まだどこかアイドル的な見方をされがちだったBUCK-TICKが、今作では音楽的に高い評価を得ることになる。

アルバムがリリースされる頃、その制作秘話を語ったインタビューが各音楽雑誌を賑わせた。
そこで語られていたのは、“惡の華”ツアーの最中に櫻井の母親が亡くなったこと。悲しみを表に出すことなく回ったツアーはほぼ記憶がなく、ツアー後はひどい虚脱感に襲われたという。

収録曲の「JUPITER」と「さくら」は母親の死を思い、綴った。そうした私的な部分を詞にして作品にすることで、忘れることはないだろうと、当時語られている。

「JUPITER」は櫻井が出演する日本ビクターのCDラジオカセットレコーダー「CDioss」のCMソングとして起用され、美しいメロディと胸を打つ懺悔の歌詞は、新しいBUCK-TICK像を印象づけるものとなった。

バンドの金字塔『狂った太陽』を完成させたBUCK-TICKは、大きな転換期を迎えることになる。

1992~1996

今井の脳内を具現化する

『狂った太陽』の制作は、レコーディングエンジニア比留間整とのやり取りを通して今井の中に生まれた“音源とライヴを切り離す”という意識改革をもたらした。
それまではエフェクティブなサウンドや新しい技巧を取り入れようとするも、ライブで再現できるかどうかを考えて躊躇することが多かったが、今作では脳内のサウンドにより近い音を具現化することに成功。
それをさらに推し進めたのがセルフカバーアルバム『殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits』の制作だった。

1992年はメジャーデビュー5周年を迎える年。“ベストアルバムを”という案もあれば、新作を作りたいという意見もあったという。
『狂った太陽』で生まれた“この5人ならではのグルーヴ”を感じ取っていた今井。
既成の曲でベストを出すよりも、今の自分たちの演奏で録り直したいという思いが、当時では珍しかったセルフカバーアルバムの制作へと向かわせた。

後に今井はその制作ついて、昔はどうしてこんなにも出来なかったのかという「恨みを晴らすのが一番の目的だった」と語っている。

ギターはこれまで以上にエフェクターを多用し、ギター・シンセやエレクトリック・シタールを使用するなど音色も多彩に。結果、新作を作るのとほとんど変わらない時間と労力が費やされた。
『狂った太陽』で得た感覚をこの制作で確固たるものにしたメンバーのモチベーションは高く、当初は新作を出したいと主張していた櫻井も「力を抜いて挑むことができた。楽曲と自分が密着できたような感覚があって、何かわかりかけたような気がする」とその手応えを実感していた。

セルフカバーアルバム『殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits』は、リスナーにとっても大きな衝撃だった。デビュー当時は下手くそだなどと評されていたバンドが、わずか5年で目覚ましい進化を遂げ、既存曲を見事にブラッシュアップしてみせた。

映像表現への挑戦


その後に長めのオフを取ったメンバーだったが、意識はすでにある構想に向かっていた。それは『狂った太陽』『殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits』の世界観を最大限に表現するためのビデオシューティングライブ。
9月10日・11日に開催された横浜アリーナ公演“Climax Together”だ。
“よりライブらしいライブを観せ、聴かせたい”という思いをテーマに掲げ、何度もミーティングを重ねていった。
オーバル型の横浜アリーナを横使いにしたダイナミックなステージや、フロアのセンターに設置された大きなクレーンカメラも当時は画期的だった。
“ビデオシューティングのためのライブ”自体がスタッフ、オーディエンス含め皆初体験。
「オープニングからインパクトを与えたい」という櫻井の要望から、紗幕越しにシルエットのままで「JUPITER」を1コーラス演奏するという印象的なオープニングが生まれた。さらに、床下からのアングルや、腕の血管までも撮ってほしいというアイデアも取り入れた斬新で多彩なカメラワークは、ステージの圧倒的な臨場感がそのまま収録された。

この公演の模様は12月にVHSでリリースされ、伝説的なライブの記録として後続のバンドに大きな影響を与えた。

“闇よりも暗い”新たな地平へ

1993年2月、ニューアルバムのレコーディングが始まった。
音楽的に高い評価を得た『狂った太陽』『殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits』での、音を詰め込む緻密なサウンドメイクに既に飽きていた今井が目指したのは、かつてない“ロックアルバム”だった。
ヤガミのドラムが生むグルーヴに、樋口のメロディアスなベース、ディストーションを駆使した今井のヘヴィーでノイジーなギターサウンド、そして星野は新しい試みとしてキーボードを導入。新鮮なアンサンブルを生み出した。

先行シングルとしてリリースされたシングル「ドレス」は、星野がキーボードで作曲。櫻井もまた、これまでとは異なるアプローチで歌詞を書いたという。それまでは歌いたいテーマや言葉を楽曲に当てはめていたが、今作では用意した言葉ではなく、それぞれの楽曲が引き出す言葉を綴ったことでより分かりやすく、よりリアルな言葉が並んだ。

そんなニューアルバムを“闇よりも暗く”、『darker than darkness -style 93-』と名付けられた。

全10曲と発表されていた今作には、面白い仕掛けがあった。実は75トラック目と84トラック目にノイズ音が収録されており、93トラック目には隠しトラックとして「D・T・D」が収録された。

この隠しトラック「D・T・D」は、5月からスタートした全国ツアー“darker than darkness -style 93-”の1曲目に披露されたのだが、制作の遅延によりアルバムの発売が6月になってしまったことで「謎の新曲」としてファンの注目を集めた。
このツアーでは、櫻井がサックス、星野がキーボードをプレーするという、今までにない新鮮なシーンも見られたほか、MCの必要性に疑問を抱いていた櫻井は、このツアーから極端にMCを減らしている。

BUCK-TICKを変えたい

対バンツアー、野外イベントなど充実した期間を経てメンバーは約2年ぶりのアルバム『Six/Nine』のレコーディングに入る。
この時点で今井の頭の中にはすでに7曲ほどでき上がっていたそうだが、そのアイデアをデモテープに落とし込む段階で手間取り制作は難航。これまでは作曲者が各パートのレコーディングを見届けてきたが、今井が作曲やアレンジに追われているため、各作業は個人で進められた。ボーカル録り、リズム録り、トラックダウンと、3つ押さえていたスタジオが同時進行することもあったそうで、今作で星野の楽曲を今井がレコーディングで演奏することはなかった。

そんな中リリースされた先行シングル「唄」は、イントロからディストーション・サウンドを押し出したヘヴィーなロックチューンで、メンバーが有名ミュージシャンのコスプレをして登場するMVも含め、これまでのBUCK-TICKのイメージを塗り替えるような勢いがあった。

『Six/Nine』の制作にあたり、今井にも櫻井にも“BUCK-TICKを変えたい”という共通の思いがあった。「唄」には2人の“変えたい”思いが顕著に表れていたゆえ、その反響は良くも悪くも大きかった。今作の櫻井の歌詞は、無駄なものを削ぎ落とすことでより研ぎ澄まされ、枠組みを超えて溢れ出るものをそのまま素直に言葉にしていった。

リリース前から賛否両論が飛び交ったアルバム『Six/Nine』は、全16曲70分を超える大作となった。
Der ZibetのISSAYとのツインボーカルによる「愛しのロック・スター」など新たなBUCK-TICKサウンドを提示した転換点となる作品で、その世界観を押し広げるべく『惡の華』以来の全曲ビデオクリップを撮影。4月のフィルム・ギグツアー“新作完全再生劇場版”で公開した。
これまで『狂った太陽』、『Six/Nine』とサウンド面や意識的なところでの転換期を経験してきたBUCK-TICKだったが、デビュー10年目を目前にした1996年は彼らの環境が大きく変化する年であった。

覚悟の独立と試練

1995年9月に“Somewhere Nowhere 1995 TOUR”を終えた後、1996年5月のシングル「キャンディ」のリリースまで、実質表舞台から姿を消した状態にあったBUCK-TICK。その間に彼らは、所属していた事務所から独立し、1月31日付けで個人事務所である有限会社バンカーを設立した。この決断について、初代代表取締役社長に就任したヤガミは、「長く続けていく覚悟を決めた時期でもあった」と振り返っている。

一方、制作面では『darker than darkness -style 93-』『Six/Nine』と難解な作品が続いた反動からか、今井の中の作曲に向かう姿勢は“シンプルでわかりやすいもの”へと変化していた。
そうして生まれたアルバム『COSMOS』はサウンドがよりシンプルでソリッドになった結果、メロディや楽曲自体のクオリティの高さが際立つ作品となった。7月からスタートしたツアー“TOUR 1996 CHAOS”では、今井のスタビライザーや一角獣のヘッドギアが登場。櫻井のMCも言葉数が増え、どこか肩の力が抜けたような軽やかさでステージを楽しむ様子が見てとれた。バンドはこの勢いのまま、12月からコンサートツアー“CHAOS After dark TOUR”へと進むはずだったのだが、その前に写真集の撮影のためにネパールを訪れていた櫻井が急性腹膜炎を発症。命の危険を伴うほどの重症で、緊急帰国。一カ月ほど入院することになり、ツアーは翌年の3月に延期された。新たなスタートを切った年に試練は訪れた。

1997~2001

度重なるレコードメーカーの移籍

一時は生死を彷徨った櫻井の体調も無事に回復、延期したツアーのタイトルを“CHAOS After dark TOUR”から“BUCK-TICK TOUR’97 RED ROOM 2097”と改め7会場10公演のツアーを行なった。
メジャーデビュー10周年を迎えるこの年、マーキュリー・ミュージック・エンタテインメントへの移籍を決めた彼ら。新たな環境の中でメンバーは新作のレコーディングに入った。
アルバム『COSMOS』で共同プロデューサーとして参加した奈良敏博(ex.サンハウス、シーナ&ロケッツ)をリズム・プロデューサーとして迎え、マニピュレーターの横山和俊も加わり、山中湖のスタジオで約2週間のリズム録り合宿に入った。
その頃櫻井は仮歌録りに悩みながら、手応えを掴もうと暗中模索していた。大病により生死の境を体感した櫻井は、リアルをそのまま表現するのではなく、“音楽というファンタジーなものにしたい”と考えた。そうして完成したアルバムは、今井の中にあった“流線型”というイメージから浮かんだ“STREAM LINER”に、スラングで“最新系”という意味をもつ“SEXY”を合わせ、『SEXY STREAM LINER』と名付けられた。

充実の制作活動

ケミカル・ブラザーズのやダフト・パンクのといったエレクトロニックミュージックがチャートを賑わせた1997年。
テクノやドラムンベース、トランスといったダンスミュージックをロックに落とし込み、デジタルと生音とのバランスを突き詰めた『SEXY STREAM LINER』は、BUCK-TICK史上最大の異色作とも評された。

海外勢とのライブ、野外フェス出演など精力的な活動を続ける中で2000年にBMGファンハウス(現アリオラジャパン)へ移籍。
その時々の創作の新鮮さや瞬発力を重視して作曲活動を行なっていた今井が、思い浮かんだメロディをレコーダーに録っておくという新しいアプローチで挑んだのが今作である。その中で生まれた移籍第一弾シングル「GLAMOROUS」は、イントロのギターリフから曲の最後まで、何かを付け足したり削ったりすることなく一気に完成させた。

オリジナルアルバムとしては3年ぶりの『ONE LIFE, ONE DEATH』の
制作もスタート。
「GLAMOROUS」の感覚を突き詰めていきたいというシンプルな発想からアルバムは制作された。

『ONE LIFE, ONE DEATH』の骨太なバンドサウンドは、リリース翌日からスタートしたホールツアー“PHANTOM TOUR”と、ライヴハウスをメインにした“OTHER PHANTOM TOUR”、そして東名阪の“TOUR ONE LIFE, ONE DEATH”の3本のツアーで体現された。最終日の12月29日日本武道館公演は初めて360度座席を開放し、バックスタンドも観客が埋め尽くした。

“THE DAY IN QUESTION”

20世紀から21世紀へ移り変わった2001年、暗い影を落としたのは9月11日にニューヨークで発生したアメリカ同時多発テロ事件だった。大きく変動した世界情勢に衝撃を受けたアーティストは数多い。BUCK-TICKも次作に向けてスタジオに入っている最中だった。11月21日にリリースしたシングル「21st Cherry Boy」は、楽曲自体は事件に影響を受けた内容ではなかったが、元々「21st Cherry Bomb」と付けていたタイトルを、爆発物を連想させる“Bomb”を避け、「21st Cherry Boy」に変更した。

次作のレコーディングを終えたBUCK-TICKは、12月29日に2001年唯一の単独公演“THE DAY IN QUESTION”を日本武道館で開催した。アルバムツアーとは違ってセットリストに縛りがなく、新旧のナンバーが入り混じったメニューで構成したこの公演が好評を博したため、この年以降“12月29日の日本武道館”が恒例化され、“THE DAY IN QUESTION”はファンにとって特別な公演となった。

2002~2006

ニューヨーク同時多発テロに感じた無力感

2002年3月にリリースされたアルバム『極東 I LOVE YOU』。
今井が思い描いていたアルバムイメージは、ボーカル、ギター、ベース、ドラムによるバンド然としたサウンドメイクではなく、アコースティックギターのような有機的なものと、ノイズや電子音が融合されたエレクトロニカなもの。集めた環境音からノイズを作るなど、電子音をアコースティックに聴かせるような手触りを目指した。また、今作ではレコーディング・エンジニアに比留間整氏と、新たに南石聡巳氏を加えた。「WARP DAY」や「Long Distance Call」など、アコースティックサウンドの強いナンバーを比留間氏が、「疾風のブレードランナー」や「極東より愛を込めて」など主にエッジの効いたナンバーを南石氏が担当。1枚の中で2人のカラーが色濃く出た作品になった。

制作に入る直前に起こったニューヨーク同時多発テロについて、櫻井が最初に感じたのは「無力感」だったと言う。自分が今やるべきことは何だろうか、自分自身に潔くありたいという思いは、先行シングルとしてリリースされた「極東より愛を込めて」の歌詞に特に顕著に表れている。“極東”という言葉が浮かんだのには、前年のSCHWEINで海外アーティストと活動したり、韓国でライブを行なったことにより、自分が居る場所を再認識したことにある。その“極東”というキャッチーな言葉に、“希望”や“愛”を込めてアルバムタイトルを『極東 I LOVE YOU』と今井が名付けた。

初のソロ活動へ

2003年はアルバム『Mona Lisa OVERDRIVE』をリリース。
1曲目に収録された「ナカユビ」は、前作『極東 I LOVE YOU』に収録された「Continue」のキック音や、メロディをそのまま使って再構築されたほか、『Mona Lisa OVERDRIVE』の最後のSE「Continuous」は『極東I LOVE YOU』の1曲目「疾風のブレードランナー」に繋がるSEになっていて両アルバムがループするとして話題を集めた。

その後もホールツアー、FCライブ、スタンディングツアーに加え、マリリン・マンソンのジャパンツアーにオープニング・アクトとして出演。大きなインパクトを与えた。
この年の年末、恒例の日本武道館公演を行うが以降バンドの活動はしばらく休止。メンバーはそれぞれ初のソロ活動に入る。

その先陣を切ったのは櫻井敦司。THE MISSIONのウエイン・ハッセイ作曲の「SACRIFICE」でソロデビューを果たす。6月には国内外のアーティストとのコラボレーションによるアルバム『愛の惑星』を、7月にはシングル「胎児/SMELL」をリリースし、東京・NHKホールにて初のソロ・ライブを行なった。さらに8月にはショートムービー「LONGINUS」で初主演を果たし、話題を集めた。

今井寿はKiyoshi(G&Vo)、岡崎達成(Dr)と、“ロケンロール”をテーマにしたバンド・Lucyを結成。1stアルバム『ROCKAROLLICA』をリリースする。

ヤガミ・トールはYagami Toll & The Blue Skyを結成し、シングル「1977/BLUE SKY」をリリース、樋口豊はROGUEの奥野敦士とユニット・Wild Wise Apesを結成しアルバム『3rd World』をリリースした。

再集結

約9カ月ぶりにメンバーが集結したのは、9月に行われた12年ぶりとなる横浜アリーナ公演。
それぞれのソロ活動で吸収したものをバンドにフィードバックすべく、公演後には次作の制作に入った。櫻井のソロライブを観た今井は“シアトリカルなもの”“ゴシックなもの”というコンセプトを確信。櫻井も詩世界を徹底して暗闇を突き詰めた。そうしてコンセプチュアルなアルバム『十三階は月光』が誕生。デザイナー・秋田和徳氏の世界観は、収録曲「ROMANCE」のMVやツアーの舞台演出でも再現された。

2005年下半期に入ると結成20周年を祝う企画がスタート。フィルムコンサート「FILM PRODUCT」や初のメンバーセレクトによるベストアルバム『CATALOGUE 2005』がリリースされた。さらに初のトリビュートアルバム『PARADE〜RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK〜』もリリース。清春やJ(LUNA SEA)のほか、バンドに影響を与えた遠藤ミチロウ、土屋昌巳ら先輩ミュージシャンらも参加した。

2012~2016


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