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小説『ウィ・ガット・サマータイム!』(土居豊 作)  第2章 ソロ1〜ジャズ喫茶と古本屋

小説『ウィ・ガット・サマータイム!』

土居豊 作

ウィガット表紙用2




第2章 ソロ1〜ジャズ喫茶と古本屋

1)ジャズ喫茶


佐久間あきらは、学校帰りに、片桐市内のレコード屋をひやかしていくのが日課だった。自宅は学校からほど近いところにあり、自転車通学なので、町中をぐるぐる回っても1時間もかからない。
あきらが通う晴日山高校は国鉄駅のすぐ近くにあり、駅前には大きなショッピングセンターがあるが、そこにはレコード店はなかった。線路の下をくぐって駅の反対側に抜けると、市の中心部を形成する長い商店街があり、その並びにはレコード店があった。けれど置いているレコードは歌謡曲と邦楽が中心で、ジャズどころか、クラシックすらあまり置いていなかった。だから、あきらは素通りして商店街を抜け、市内のもう一つの府立高校がある方へ自転車を走らせた。
途中にある小さな児童公園は、吹奏楽部の仲間がよくたむろしておしゃべりする場所だった。あきらはその集まりには加わらず、先にレコード店に行くことが多かった。レコード店からまた国鉄駅に戻ってくると、たいてい仲間たちはまだ公園にいて、結局合流することになる。といっても、仲間たちは特に実のある話をしているのではない。同じ部活の女の子たちの品定めや、やっている曲のこと、聴いている音楽のことなど、他愛ないおしゃべりを飽きることなくだらだら続けているのだった。
「で? 今日は何か掘り出し物、あった?」
早瀬みきおが、ジャングルジムに腰かけた姿勢のまま、尋ねてきた。
「いや、新譜はなかった。売れ残りばっかり」
あきらは、通学用のバッグを自転車の前かごからおろして、自分もジャングルジムの下の方に腰かけた。バッグからお茶の入った水筒を出して、ぐいぐい飲んだ。
「なんだ、またレコードか? 飽きないなぁお前。ラジオで聴けるからいいじゃないか。ほれ」
吹奏楽部の部長の桜井敦士は、あきらをみて笑い、缶に入ったコーラを差し出した。
「お、サンクス」
あきらは受け取って、缶を上に傾けて一気に飲んだ。炭酸が抜けて生ぬるくなったコーラだが、甘みが心地よかった。
「ジャズの曲は、吹奏楽ではやりにくいよ」
桜井は、そんなあきらをながめながら、いつもの持論を言った。
「やっぱり、もっと吹奏楽オリジナルをやりたいな」
「オリジナルをやっても、うちのバンドじゃなかなかそろわないからなぁ。なにせ、指揮者があいつだから」
みきおがそれに反論するのも、いつもの流れだった。
「なんで? 指揮者がどうあれ、みんなが気をつけたらちゃんとそろうよ」
桜井が言い返した。
「指揮者が悪い、という点では、お前ら一致してるよな。明日、かおるに言っておいてやる」
あきらがニヤリとして言うと、桜井もみきおも慌てて、意見をひるがえすのだった。
「いや待て、指揮者はいいんだ」
「そうそう、演奏が悪いのは俺たちのせい」
「そうも言ってた、と明日伝えておくよ」
あきらは笑った。


あきらがいつもチェックに行くレコード店のひとつは、市内の中心部を国鉄線と並走している私鉄の駅前にあった。大きなショッピングセンターの中にあり、町で一番大きなレコード店なのでジャズのレコードもかなり揃っていた。
もうひとつの店は、私鉄駅を越えて狭い路地を進んだところにある、小さな個人商店のレコード屋だった。ジャズとクラシックのLPで埋まっている、かなりマニア向けの店だった。
そのお店で、店主の中年男に無言で会釈してから、ジャズの棚をざっとみてまわり、新しいジャズのレコードを探すのがあきらの日課のようになっていた。
もっとも、新しいレコードを見つけても、すぐに買えるわけではなかった。新しいレコードはたいてい値段が高いし、あきらの小遣いでは、新譜を買うには2ヶ月分貯めなければ無理だった。
新しいレコードのためにアルバイトすることも、考えないではなかったが、実際のところ、吹奏楽部の練習と学校の勉強とジャズの練習で、時間は手一杯だ。アルバイトは、長期休暇のときにまとめてするのがせいぜいだった。
だから、新しいレコードはあきらめて、ジャズの研究用にはもっぱら、FM放送をラジカセでエアチェックしていた。
エアチェック、というのは、FMラジオの放送をカセットテープに録音することだ。この当時、音楽番組でよく、LPレコードを丸々全部放送してくれることがあった。レンタルレコード店は、すでに片桐市にもあったが、レコードを借りるのにけっこうお金がかかるので、中高生はもっぱらエアチェック派が多かった。
FM放送にジャズの番組がいくつかあって、あきらは欠かさずエアチェックした。そのカセットをウォークマンに入れて、通学のときも自転車で走りながらずっと聴いていた。憧れのアルト・サックス奏者であるチャーリー・パーカーや、アート・ペッパーのアドリブを耳で覚えて、それをいつも早朝練習のとき、アルト・サックスで試してみるのだった。
その日もいつものようにジャズのレコードの新譜を探しにきた。レコード屋についたのは、すでに陽が沈んで路地の奥が黄昏れている頃合いだった。
「よお。今日はいいのが入ってるよ」
店主のおじさんが、あきらに声をかけた。
「え? サンボ―ンの新譜、出たんですか?」
「サンボーン? あんなのジャズじゃないよ。違う、違う。ペッパーの珍しいレコードだ」
「え? ペッパーですか! どれですか?」
「探してみな」
「ええ? そんな、もったいぶっちゃって」
ぶつぶついいながらも、あきらは、ジャズのコーナーの、Aの索引の棚をみた。
探すまでもなかった。
Aのコーナーの上に、新譜をジャケット面をみせて置く陳列棚があったが、そこには、刺激的な写真のレコードが飾ってあった。
まるで、洋物のグラビア雑誌のように、グラマーでゴージャスなブロンドの美女が、上半身はだかで、真っ白な前歯を見せて、あっけらかんとした笑顔で写っている写真のジャケットだ。残念ながら、というか当然ながら、ブロンド美女の2つの乳房は、彼女自身が両手で隠していたが。というより、彼女が両手にはめているぬいぐるみが、見事な隆起をみせている2つのおっぱいを、うまく隠していたのだ。
そういう刺激的なジャケット写真に気をとられてしまって、あきらは、しばらく、それがお目当てのレコードだとは気づかなかった。
そのブロンド美女のレコードジャケットのタイトルをみると、まさにイメージそのままのタイトルだった。
『プレイボーイズ? なんだ? 雑誌の《プレイボーイ》が出したレコードか?』
そう思ってジャケットをみると、アーティスト名が目に入った。
アート・ペッパー。チェット・ベイカー。
『なるほど。ペッパーと、若い頃よく共演したというトランぺッターだな』
あきらは、ひとりごちた。
アルト・サックスとトランペットのツー・トップ・コンボで録音したレコードだ。あきらは、アート・ペッパーのワン・ホーン・カルテットのレコードは、FMで何度か聴いたことがあった。
『ツー・トップは、初めてだな。これは掘り出し物だ。いや、待てよ。このジャケット、大丈夫か?』
あきらは、ためらった。
こんな刺激的な写真のジャケットでは、買って帰っても、親の目に触れるところには置いておけない。
でも、お小遣いでレコードを買うときは、一応、どんなレコードを買ったか、報告することになってるのだ。
はてさて、どうしたものか。
迷っていると思ったのか、店主は声をかけてくれた。
「聴いてみるか?」
「え? もちろん!」
『サンキュー、おじさん。これで、急いで買わなくても、気長にエアチェックを待てばいい』
あきらは、ちょっと気が咎めたが、ありがたく試聴させてもらうことにした。
「もし全部聴きたかったら、《チェ》に行くといいよ」
店主のおじさんは、そう言いながら、アメリカ直輸入のLPレコードをジャケットから出した。
「《チェ》?」
「ああ、知らないかい? この近くにあるジャズ喫茶だ」
「ジャズ喫茶? 何ですかそれ?」
あきらは、ジャズ喫茶なるものを、これまで見たことも聞いたこともなかった。
「その名の通り、ジャズを流している喫茶店だよ」


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2)古本屋


早瀬みきおにとって、耳鼻科通いは、慢性鼻炎になって以来のルーティーンだった。小学校までは、自宅近くの小児科を兼ねた耳鼻科にかかっていた。中学生のころ、慢性鼻炎と蓄膿症を治すべく、隣町の大きな耳鼻科に通うことにした。でも切開手術はいやなので切らずに治したい、と言ったので結局治らないまま、高校生になっても定期的に耳鼻科に通っていた。
クラリネット奏者にとって鼻炎は、ブレスの間隔が短くなるのがマイナス面だ。つまり、鼻が詰まり気味のときは通常の呼吸量が少なくなるため、より頻繁に口から空気を吸い込まなければならないからだ。ただでさえ演奏中は、呼吸と楽器を吹くためのブレスで息が苦しいので、鼻は詰まってない方がいい。でも、だからといって顔を切開されるのは、もっと気が進まなかった。
なにしろ、みきおは顔に傷をつけられるのが恐かった。その恐怖心はまず間違いなく、幼稚園のころ同じ組の子に顔を噛まれて、病院にかつぎこまれた幼児体験のせいだった。長い間忘れていたはずなのだが、蓄膿症の手術の話をきいたとき、突如あのときの記憶が蘇った。不思議と、痛みは覚えていない。けれど、歯形だか傷口だかが目から鼻にかけて斜めについた、大きな赤っぽい傷を、はっきりと思いだすことができた。大きな傷のついた自分の顔を鏡でみて、大声で泣き続けたみじめったらしい自分の姿も、よく覚えている。
顔を切られることに対する恐怖心は、抜き難くみきおの心に植え付けられてしまったのだろう。
ただでさえ眉目流麗なみきおは、つまづいて倒れそうなときでも、真っ先に顔をかばう条件反射が身についていた。
幼なじみのかおるにいわせると、「女の子みたいな過剰反応だけど、その美貌なら許す」とのことだ。
そういうことではない、と否定したかったが、いまだに幼稚園時代のトラウマを引きずっている自分を、かおるに知られるのはなんとなく恥ずかしいので、あえて弁明はしなかった。かおるとは、幼少期お互いの性器も見せ合った仲だが、心の底までみせる気は、みきおにはなかった。
もっとも、かおるの方は、みきおのトラウマをちゃんと見抜いているのかもしれない。というより、かおるのことだから、みきおの母親から顔のケガのことや鼻の手術の話も、全部聞き出しているのかもしれない。そのぐらい、かおるはみきおの自宅によく出入りしていた。もっともそれは、みきおの母親が自宅でやっているピアノ教室に、かおるが幼少期から通っているからなのだが。
それに、みきおの母は2人が性器をみせあって遊んでいたのもちゃんと知っていて、いざこの2人のどちらかを叱るときには、きまってその恥ずかしい過去を突きつけて、町内にバラす、と脅しつけるのだった。
みきおは、この日、耳鼻科に行くことになっていて、いつもより30分早めに吹奏楽部の練習から抜けた。クラリネットのハードケースを手にぶらさげ、学校の道具が入った大きなバックパックは反対の肩にかけて、いつもの国鉄駅ではなく、歩いて15分ぐらいの距離にある私鉄駅に向かって、足早に歩き出した。
耳鼻科は、私鉄駅のショッピングセンターの最上階にあり、いつも患者であふれていた。このショッピングセンターには、この町で一番大きなレコード店が入っている。そのレコード店を耳鼻科帰りにのぞくこともあったが、みきおはどちらかというと、同じショッピングセンター内にある町で一番大きな書店に寄るのが好きだった。ここのレコード店に佐久間あきらがよく出入りしているのは知っていたが、めったに出くわさなかった。この日もみきおは、耳鼻科のあと書店に立ち寄ったとき、あきらに会うとは全く予想していなかった。
「よう」
あきらが声をかけてきた。
「なんだ、めずらしいな。参考書かい?」
みきおはうなづいて訊き返した。
「いや、コードブックを探してるんだ」
あきらは、音楽関連書のある棚の方を指さした。
「コード?」
「アドリブやるのに、コードの表がいるんだ」
そう言われて、みきおはうなづいた。
「ああ、コードね。各調のスケールか」
「いや、スケールじゃないさ。アドリブだよ」
「でも、アドリブって、自分で考えてやるからアドリブだろ?」
みきおは、首をかしげた。
「そりゃそうだが、やっぱりお手本がいるんだよ。名手たちのアドリブをメモしたのが出てるんだ」
「ああ、カデンツァの記譜みたいなものか」
みきおは、ピアノを弾く手つきをして見せた。
「いや、どうかな? ちょっと違うと思う」
「で、あったかい?」
「いや、なさそうだ」
あきらは、苦笑いした。
「ここでなかったら、都心にでなきゃ、ないだろうな」
「やっぱ、そうかなあ」
「楽譜の専門店、行かないと」
「専門店?」
あきらは、狐につままれたような顔をした。
「今度、教えてあげるよ」
「うん。そっちは何探してるんだ?」
「いや、医者の帰りにちょっと寄っただけだよ」
「あ、耳鼻科か」
「そう。いやになるよ」
「大変だな」
「まあね」
「じゃな」
「うん」
そんなやりとりのあと、みきおは、あきらが言っていたコードブックというのが気になった。探してみたが、音楽書のコーナーにはやはり置いていなかったので、受験コーナーに行った。そもそも、今日は耳鼻科のあと、数学の参考書を買う予定だったのだ。
みきおは根っからの文系人間で、理数系の科目が苦手だった。数学は中学校レベルまでならなんとかなったが、高校に入ってから数1で少しずつ落ちこぼれて、2年では基礎解析で四苦八苦していた。代数幾何は理屈で考えるとなんとかなるのだが、解析というのは計算を間違えないのがほとんど無理だった。
そうであれば、練習問題をいくらやみくもにやっても学習効果は上がらないだろう、とみきおは考えていた。
正解をみて、そこに至る計算式のパターンを覚えてしまうのがもっとも近道だ。とりあえずの目的は次のテストで計算を間違えないこと。たとえばクラリネットで、ある調のスケールをバランスよく吹けるようにするのが目的ではなく、とりあえず目の前の曲を吹けるようになるための練習と同じだ。いちいちその曲の調のスケールを練習しているより、レコードで曲を聞いてそっくりそのまま真似して吹けば、とりあえず演奏はできる。基礎解析も、これと同じだ。
そこまで考えて、みきおはふと、気づいた。
『ん? それって、あきらが言ってたジャズのアドリブと同じだな。アドリブって奏者が自分の思いついたままでたらめに音を並べているだけかと思ってた。まさか、アドリブにも参考書があったとはね。ん?』
みきおは参考書の棚に、そのコードブックを見つけてしまった。
コードブックが参考書のコーナーに1冊だけ置いてあるのは、音大受験の目的に違いない。音大でもジャズ系の学科があるから、その実技試験のためにとりあえずアドリブを身につける必要があるのだろう。
みきおが迷った挙句に音大受験用とおぼしきコードブックを買ったのは、あきらにプレゼントするためではなかった。クラリネットでジャズ系の曲をやるとき、アドリブソロを考えるのに役に立つはずだからだ。そのコードブックはサックス用だったが、クラリネットで吹くのに支障はなかった。
『ジャズについては、あきらの方が専門だ。こっちは参考書でとりあえずできるようになるしかない。基礎解析の場合と同じだ。
あ、しまった。参考書を買うのを忘れた』
結局、その日は参考書を買いそびれてしまった。それどころか、参考書を買うためのお金を別の本に使ってしまったので、当分、参考書はクラスの友達にみせてもらうしかない。
その日買ったのは、コードブックのほかに、古本屋で見つけた関西のジャズ喫茶の歴史を書いた本だった。
ジャズ喫茶というものを、みきおはそれまで知らなかった。片桐市の繁華街には、ジャズ喫茶というようなしゃれた場所はなさそうだった。
もしあったとしても、みきおにはわからなかっただろう。ただのレトロな喫茶店だと思って、見過ごしていたに違いない。
みきおは、ショッピングセンターを出ると、よく立ち寄る商店街の近くの古本屋に行った。この古本屋で、単行本の小説の棚をなんとなくながめて、なにか珍しい小説の掘り出し物はないかと探すのが習慣だった。
市内にある古本屋はほんの数軒だけで、みきおはそのほぼ全てに行ったことがあった。学校の帰りに寄るには、この《南蛮屋》が近くて、私鉄駅からまっすぐにのびる神社の参道沿い、商店街のはずれにあった。
《南蛮屋》というと鶏料理かなにかのようだが、この市内では一番大きな古本屋だった。そもそも市内には、古本屋自体が珍しかった。小さな個人営業の本屋さんが市内のあちこちにあって、古本屋という営業形態がとりにくいのかもしれない。それ以前に、そもそも古本を売りにくる人が少ないからかもしれなかった。
「何か、お探しですか?」
中年男性の店主が愛想良い声で声をかけてきた。
「あ。いや、ちょっと。ジャズについての本を」
「ジャズ喫茶についての本ならありますよ」
「ジャズ喫茶?」
「ジャズ喫茶の本というより、関西のジャズ文化についての本ですけどね」
店主は、その単行本を背の高い書棚の一番上の方から、踏み台を使って下ろした。
「ほら、これ」
「へええ。おいくらですか?」
みきおは興味半分、ぱらぱらめくってみた。思いがけず、レトロな喫茶店やバーの店の写真がふんだんに載っていて、それぞれの店の場所も地図付きで入っていた。ここに載っているジャズ喫茶を、そのうち一軒一軒、訪ねて回るのも面白いかもしれない。
みきおは、迷った末に、参考書をあきらめてこの本を買った。


DSC01665のコピー





第3章 ユニゾン2〜謎の楽譜その2 へ続く


冒頭より

《立花かおるは、合奏を指揮するときいつも、ブラウスのボタンを2つまではずすくせがあった。だから、一番指揮者に近いコンサートマスターの位置にすわる早瀬みきおは、指揮者の方に目をむけると、つい彼女のブラウスの胸元をのぞきこむような感じになってしまって…》





(前の章へのリンク)
プロローグ〜メインテーマ

第1章 ユニゾン1〜謎の楽譜1

https://note.mu/doiyutaka/n/na42f2da287a0


ウィガット表紙用3


土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/