第四開『雨』 ねん

昔から傘と縁がなくて、手に持っていたはずの傘がすぐにどこかへ行ってしまう。皮肉なもので、安物のビニール傘はなくしたことがないのに散々迷って買ったお気に入りの傘はよくなくした。なくすと言ってもどこかへ忘れてくるわけじゃなくて、学校やスーパーの入り口の傘立てに入れて、出てきたらもうないのだ。当然見つかるはずもなく、この次はもう高い傘なんか買わないと決意して泣く泣く諦めるしかなかった。

そんなことが何回かあって、すっかり布の傘を買わなくなった。いつ盗られてもいいようにというわけではないが、ビニール傘ばかり使っている。持ち手が黒か白かも覚えていない、何の変哲も無いビニール傘。どこへ行ってもおんなじような傘が何本もあるし、実際スーパーの帰りに間違えて他の人のを持ってきた時もあった。気付いた時にはもうスーパーより家の方が近くて、代わりに自分のが置いてあるからいいか、申し訳ない、とスーパーの方角に一回拝んで、それで良しということにしてしまった。
だってそのほうがきっといい。ビニール傘なんて全部同じなのだから、私が持ってきてしまったこの傘の主は私の傘を使ってくれればいい。あなたもわたしも濡れなければいい。そのための傘で、それ以外意味なんてない。私、何か間違ったこと言ってる?
そう友達に聞いたら、曖昧な笑顔で逃げられた。なんで?何かに執着するなんて無駄だと思う。失くした時に寂しくなるだけだから。

ある雨の夜、一緒に棲んでいる恋人が仕事から帰ってきた。いつも笑ってただいまと部屋に入ってくるのに、おかえりと言っても返事がない。玄関まで見に行くと、うなだれて玄関先に座っていた。具合が悪いのかと心配になってどうしたの?と聞くと、「傘が…」と言う。「傘?持ってくの忘れたの?」と聞きながら彼の体を見るけど、濡れている様子はない。「そうじゃなくて、傘、盗られちゃったみたいなんだ…」と、弱々しく彼は続けた。なんでも、今日は大事な商談があったからお気に入りの傘を差して取引先まで行ったのに、商談をまとめて帰ろうと思ったらその傘がなかったと言うのだ。呆れてしまった。だからいつも言ってるのに。傘なんてビニール傘で充分。たまにお気に入りのものを持っていった時に限ってそういう目に遭うんだから。物に固執したってなんの得にもならないよ。物は自分のことを好きになってはくれないんだから。そもそも、とさらにまくしたてようとしたところで「もういい」と遮られた。ハッと彼の顔を見ると、彼は俯いていて、その表情は見えなかった。そのまま一言だけ「君には分からないよね」と呟いてさっさと部屋に入ってしまった。どうして?囚われたって辛いだけなのに。誰かに盗られたなんてがっかりしなくてよくなるのに。どうして?

それから何度雨が降っても、彼は帰ってこなかった。最初のうちは淋しかったけど、すぐに慣れてしまった。ほら、だから言ったのに。どれほど心を移したって、どれだけ慈しんだって、いずれ全て目の前から消えてしまう。
本当は分かっていた。彼が大事な日に気に入った傘を持ったのは執着なんかじゃない。そんなねっとりとしたものじゃなくて、もっと純真な気持ち。大切なものを慈しむ優しい気持ち。軒先で雨宿りしている子どもに、何のためらいも無く傘を渡す人だった。
でもいつからか、私は自分の傘に空いた穴を見つけて悲しむことに疲れてしまった。穴の空いた傘では何も守れない。生きていれば何度だって傘は壊れる。それにいちいち傷ついて泣いている暇は無いのだ。だったら早く新しい傘を買ったほうがいい。止まない雨は無いけれど、雨が降らなければ虹は見られない。
いつからこうなってしまったのだろう。いつでも大切なものに傘を差しかけられるように持っていたかっただけなのに。
何一つ、濡らしたくなんてなかったのに。

その日はひどく晴れていて、久しぶりに玄関先を掃いた。傘立てに溜まったビニール傘を選別していたら、ひとつだけ持ち手に何か書いてあった。

「俺専用!忘れちゃだめ!」

少し角ばった癖のある字だった。よく見たら随分使い込まれていて、それなのに油性ペンの字は褪せていなかった。何度も何度も書き直して、さらに上からセロハンテープまで貼る念の入れようだった。黄ばんだセロハンテープをしばらく見つめていると、不意に地面にぽとぽとっと水滴が落ちた。雨かと思って空を見上げて、まばゆい太陽に目が眩んだ。ああそういえばこんな人だった。あまりに明るすぎて、洞窟にいるような気分になるときがあった。いつも精いっぱい照らしてくれたのに、そのぶん濃くなる影ばかり見ていた。

手をあてると頰が冷たく濡れていた。
いつか失くした傘の色は、もう思い出せない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?