解釈違いに殉じた魂たちへ

一度インターネットの広い明るみの下で踊った人間が当初の自然体のままで居続けるのは、現代においては限りなく不可能に近い。
周囲の声は絶対にその耳に届く。
そこで「今のまま自覚のない自分で居続けるかどうか」の分岐点に立たされる。

僕が、僕を見ている人間に与えた「僕の楽しみ方」は

「無謀な生活に挑戦するヤバい若者」

だろうが、あくまでこれは人間の一側面に過ぎない。
そういう時期は確かにあったが、それは例えばアニメにハマったり、ガールズバーにハマったり、物を破壊するだけのYouTube動画にハマったり、そんな時期の移り変わりの一つに過ぎない。
突然好きな食べ物の話しかしなくなるかもしれないし、アニメ熱が再燃してオタク語りしかしなくなるかもしれない。

運が悪い事に、今は健気に働いている。海外のカジノに行くハードルがグッと上がり、パチンコや競馬もほどほどにしか遊ばなくなった。
もうギャンブルはしないの?と聞かれれば、「今はそんなにかな」と答えるだろう。一生しないワケでもないし、何でもいいから人生を賭けたギャンブルがしたいワケでもない。とりあえず働いている。自己破産や個人再生をするワケでもなく、ダラダラと予定の空白を労働で染める毎日。

最初にインターネットのオモチャとして出てきた時、ただみんなにウケるのが気持ちよかった。
自分の歴史に残るくらい面白かった瞬間を見て、みんなが「ヤバいなコイツ」と口々に言う姿は爽快だった。サラリーマンのように責任を背負う必要もなく、好きなようにしているだけでウケていた。
好き勝手に生活する自分を見て、それぞれが好き勝手に楽しむ。そう思っていた。

僕をコンテンツとして消費する人の中には、無謀なギャンブルをする姿のみを望む人間もいる。気持ちはわかる。カイジみたいだとか、ウシジマくんみたいだとか、大体自分がやらない事をしてる様子は面白い。
僕も、虫を食ったり何でも壊したりする動画を見てそう思う。理解の埒外にあるものは面白い。

ある時から「そろそろ適当にちゃんとするか」と思い始めた。僕は好き勝手に生活し、好き勝手にちゃんとし始めた。ここで言う「ちゃんと」は僕にとっての「ちゃんと」だ。1日12時間以上働き、自己破産や個人再生はなんとなくダサいからやらない。
金に関する損とか得とか、そんなものは最初からどうでもよくて、そうしたいからそうしている。

何となく普段食べないラーメンを食べるように。
何となく普段やらない募金をしてみるように。
何となく普段行かない場所に行くように。

何となくカジノが大好きで、衝動的に全部を捧げたら破産したし、何となく「いつかまたカジノに行きたいな」と思いながら働いている。

てっきり、みんなもコンテンツとして何となく「犬」を見ていると思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
僕が「ギャンブルコンテンツ」として死ぬまで走り抜ける姿を渇望し、期待し、裏切られた人が思いの外多かった。これは僕が悪いのかもしれない。
みんなから一つ「コンテンツ」を取り上げてしまった事に気づかなかった。
僕は、僕が思っているよりも人ではなかったらしく、彼らは思っていた以上に犬というコンテンツの楽しみ方に依存してしまっていた。

彼らは、最初に見た「犬をコンテンツとして楽しむ方法」に閉じ込められ、苦しみ、呪われていた。
僕がずっと、彼らが持つただ一つの期待に応え続けるものだと信じてやまなかった。

期待は次第に責任となり、怒り始める人がいた。勝手に借金をし、勝手に家がなくなり、今度こそギャンブルをするかと思いきや、勝手に「漫然と日常を送る」僕に。
そうなってはお終いだ。元々何もなかったはずなのに、僕を見てしまったせいで最終的に損をした気持ちになってしまっているではないか。

重荷を背負っていたのは僕の方ではなく、彼らの方だったのかもしれない。

好き勝手とは、破天荒とイコールではない。何もしないのも、何かをするのも、人は全部好き勝手に生きている。声優だって結婚するし、Vtuberだって引退する。

僕がストイックにギャンブルだけにのめり込むと思っていた人には悪いが、僕は決意を持って人生の指針を決めていない。
「こんなはずじゃ」と憤っている人には多少申し訳ない気持ちもあるので言っておこう。

僕は今、何となくこの生活がしたいから、勝手にこうしている。

解釈違いに殉じた魂たちへ。


僕はみんなが思ってるよりずっと適当だけど、また人集りの中にいたら見に来て、ウケてね。

集まったお金は全額僕の生活のために使います。たくさん集まったらカジノで一勝負しに行くのでよろしくお願いします。