俺、マジでおめでとう

太陽の光が当たるか当たらないかという話で言えば、夜は「昼ではない」と表現するのが妥当なのだろう。

今朝、日の出と共に20代ではなくなった。
屁理屈で捻出したアディショナルタイムもせいぜいここまでだ。
目が覚めた瞬間、僕はもう30歳だった。
LINEの通知でも30歳を祝われ、SNSでも30歳を祝われ、どのアプリを開いても「30歳おめでとう」の特殊なページか出現した。

みんな、ありがとう。

正直なところ、30歳になる直前と比べると、随分肩の荷が降りた気がする。
30歳になる直前は、何か為さなければならない使命があったわけでも、自分の中でこれと言った目標があったわけでもないが、何となく追い込まれていた感覚があった。
自分が本来想定していた、これまでの見聞と経験から形成された「30代かくあるべし」という像を、マリオカートのタイムアタックに出てくるゴーストのように生み出し、無意識に競争させていた。
担任の先生、アニメのキャラクター、かつての親。
もう顔もよく覚えていない半透明の彼らの背中が、ずっとこちらを見ていた気がする。
ショートカットを探しながら何とか出し抜こうとしていた時期もあったが、最後の一年はもう自分が追いつけなかった言い訳を探していただけだった。

今感じている若干の爽快感は、曖昧な浪人を諦めた時のそれに似ていて、競いもせず、走りもせず、それでいて諦めもせず、ゴールの方へも向かわず、スタートの方へも戻らないまま時間だけが過ぎていく閉塞感からの解放によるものだ。

時間の早さを憎み、自分の遅さを憎み、その不可逆性に絶望していたのも束の間、またしても時間に救われてしまった。

なんだ、何もしてなくてもおじさんになっちゃったじゃん。
誰にも怒られず、最早「しっかりしろ」と言われることも無い。今までの人生の節目はスタートラインのように同じ年齢の人間が横にいた気がするが、30歳の始まり方に関してはゲームのリスポーンに近い。
みんなそれぞれ20代に積み上げた装備を持ったまま適当な場所に現れる。そこから先は戦ってもいいし土地を耕してもいいし、何もしなくてもいい、そんな感じ。
この間まで焦っていた割には大したショックもなくて、なんだか拍子抜けだ。それほどまでに何の責任も負ってこない20代だったのだろう。

今年の僕は少し余裕があった。
3年前に650万まで膨れ上がった借金は半分まで減り、アルバイトも結構頑張った。
毎朝バイトに行く時は「朝ドカタ行くぞ〜い」と呟き、同じ時間に働く人間の反応を見ては腰を上げる原動力にし、やり直せない今日を同じ色に塗り潰していく焦燥感から目を逸らした。

朝ドカタの内訳にはもちろん現場作業も多分に含まれるが、今年はパソコンを使った事務のバイトもした。
いずれも専門性が無く、僕以外の誰にでもできるような仕事で、たまたま僕がその席を取っただけだった。この底辺の椅子取りゲームも歳を取る毎に勝てなくなってくるのかと考えると、少し30歳が重く感じられる。
ドカタと呼んでいるのは自分の作業だけで、職人やプロへのリスペクトは年々高まっている。
彼らの鮮やかな仕事ぶりを見る度、この歳になってもモジモジと道を決めずに、物を運んだり紙のデータをExcelに打ち直したりするだけの自分の中途半端さが浮き彫りになってしまう。
なまじ多くの現場で働いてきた分、可能不可能は置いておいて、自分の中には無限の選択肢があるのだ。時間は有限なのに。

こんな風に余計な事を考え始めたのは、明日の金を今日稼ぐような生活から脱したからだろう。アルバイトの予定さえ決まれば、あとは収入から逆算して生活すれば良い。借金に関しては和解・簡易裁判・裁判を繰り返して全ての借入に関して利息がつかなくなったので(その代わりクレジットカードや賃貸、携帯の分割払いの審査も降りなくなった)、現状としては借金というより固定費だ。ほぼ家賃と同等の支出と考えているので、どこでも都内で暮らしているような感覚で払っている。

逆算して、働いて、少し残ったお金を貯めておいて、たまに海外に行く。なんと健全な生活だろうか。
カジノと僕との距離感は本来これが一番正しかったのかもしれない。


昨日までは20代の魔法が解けるのが怖かったが、これは勘違いだった。
僕が求めていた「面白い人生」は、他人の視界を借りていた。これを心底まで認められないのが20代の呪いだった。

とりあえず一昨日無職になったから、また仕事を探そうと思う。次の仕事も面白いといいなあ。

集まったお金は全額僕の生活のために使います。たくさん集まったらカジノで一勝負しに行くのでよろしくお願いします。