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私がしてきた仕事➖それは宝物になった

支援学校(旧養護学校)を 退職して今年で11年。

「あの子、元気かな、存命かな」
「育児や介護を一身に背負ってたお母さん、元気かな、存命かな」
「連帯して働いた同僚たちはどうしてるかな。私と同じく年老いただろな」
などと想うことが以前より増えている。
なかなか思い出せなかった児童生徒の名前や、ふとした仕草や表情までも昨日のことのように思い出すこともある。

昔をよく思い出すってことは、自分も年老いてあの世への道が近づいてきたからかな。 

障害者(私)が障害児の支援ができるはずないやん。
側から見て、へんてこりんな私が、しかも弱視で、どないして接していけんねん。
同僚からの差別も当然あるやろ。どないして対応していくねん。自分から差別されにいくことなかろ?などと随分抵抗したが、他に就職先もなく、教師や親の提案を渋々受け、試験に合格して養護学校に赴任したのは1973(昭和48年)4月。

私に向かってはっきりとした言葉に出さずとも、言葉の端々や態度や陰口で“障害者であろうが就職したんなら我々(健常者)と同等に仕事が出来て当たり前、配慮は甘えでしかない”と、自分たちがしたくない医療的ケア児や重度重複児のケアや指導や介助を押し付ける同僚も多かった。(付け加えるとほとんどが男性教諭)
しかも私は教諭ではなく※実習助手で、そいつらより給料はうんと低い身分だったのにだ。
※については最後に記載。
教諭だからと威張りくさり、職種的に給料も低い立場の者に仕事と責任を押し付け自分たちは楽をするる輩に、負けてたまるかいっ!!、お前らにみられる子どもらが可哀想じゃ!!と、戦闘モードで肩肘張って工夫しながら仕事していた。

勿論あほんだら教諭ばかりではなく障害児教育に熱心で献身的に取り組む教諭たちもいて、私の持てる知識と技術と行動を私は惜しみなく提供し一緒に連帯して仕事をした。
児童生徒たちは感覚が鋭く、こういった連帯して働く先生達の中で見せる身体の反応が違った。安心したような柔らかい表情を見せ、ふわっと全身の力を抜くように身体を預ける。
今自分に関わる先生を敵か味方か瞬時に感じ取り全身で反応していた子ども達を見るととてつもなく悲しかった。障害児教育は先ず子ども達が安心できる人的環境を作ることが重要なのにと辛かった。

私が受け持ったのは主に訓練(機能訓練と言語訓練)の時間(授業)。
給食やトイレなど子ども達の介助。
最重度児童の排痰と口腔鼻腔吸引・鼻腔経管栄養・気管切開吸引・胃ろう栄養。
月2回の整形外科医師診察に関する仕事。
月2回と週1回の義肢装具士との仕事。
勿論プールや体育大会などの行事も。

長い養護学校勤務で一番怖かったのは重度重複気管切開の生徒をプールに入れた時だ。
主治医の許可を取った保護者の「プールに入れて。ただし保護者は付き添わない」の意向を上が断りきれず、気管切開の生徒をプールに入れた時は流石に怖くて震えた。
この時も、自分は逃げたい同僚達に、生徒をプールに入れる担当に私が指名された。私は承諾するしかなかった。
2名の学校看護師にプールサイドに待機してもらい、本当は立ち会いたくない担任教諭を逃すものかと生徒の足元側に付かせ、浮き輪の上に生徒を乗せ、私はカニューレに水が入らないよう頭頸部をホールドした。考え得る出来得る対策で入水したが、
初めてのプールに極度に緊張した生徒は程なく顔色が悪くなり痰がカニューレから溢れてきた。
私は躊躇なくプールサイドにあげた。看護師がドクターカー(救急車)要請。ドクターカー到着まで看護師とともに排痰など全身状態回復に努めた。
看護師付き添いでドクターカーに乗り搬送されていく生徒を見送りながら私は震えた。
その生徒はしばらく入院したが、何故か私の責任は問われなかった。私の推測だが許可を出した主治医がよしなに収めてくれたのだろう。彼はどんなに障害が重い医ケア児にも健常児と同じように様々な体験をと言う考えの医師だった。養護学校と言えど医ケア児にとっては環境が整っていないことを充分知らなかったのかも知れない。生徒のお見舞いに行った時「先生は今回のことでご自分を責めないでください」と主治医は私に言った。そう言われてもねと心の中で自分を責めた。

今振り返るに、私の未熟さ故にしてしまった数々の失敗や反省も含め、良くも悪くもたくさんの体験や経験や人との関わり合いの中で、結果、私は、ちょっとはまともな人間になれたのだろう。
人間の本質が何かを身に沁みて感じ学習した、必死のバッチでしかなかった現役時代の39年間は人生の宝物だとつくづく思う。

※ 私は自立活動(当時は訓練)と言う専門分野担当として雇われた。まだまだ社会全体でPTが少ない時代で養護学校にまわる人数がない中、あん摩マッサージ指圧師・灸師・鍼師の資格を持ち、医学的知識のある私のような者が採用されていた。教諭免許を持たないので肩書きは“実習助手”だった。
実習助手で言えば、児童生徒のトイレや給食や日常生活の介護や介助を専任とする人たちもいた。
皆女性で幼稚園教諭や教員免許を持っていた。採用試験には通らなかったけど講師ではなく正職員である実習助手の道を選んだようだ。時としてあほんだら同僚に差別され「私たちはオシッコの先生やからねぇ」と憤慨していた。子ども達に平気で「オシッコの先生に頼もうね」と声かけするあほんだらもすくなくなかったのだ。
かと言って彼女達は仕事を蔑ろにしたことはない。例えば、どうしたら食事を摂りやすくなるか、子ども達の姿勢が安定するクッションやスプーンなどの道具を考えたり作ったりしていた。今ではプロ介護職として確率しているが昔はそんな感じだった。

また書きたいことが出てきたら追記していきます。




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