倍速批評Ver0.1 「葬送のフリーレン」と倍速視聴についての覚書

先日の日記にも書いたが、「葬送のフリーレン」の物語を理解できない人が少なくないという内容のツイートがバズっていた。私は、なにか作品の物語を理解するという行為が実際にどのようなことか自明でないという批判を考えた。そもそも、そのような人が実在するのかも怪しいし、「古今東西の世にある物語」と教養主義的な価値観が見え隠れしているのも個人的に好ましくない。

さらに、「フリーレン」を倍速視聴したので理解できていなかったというツイートも議論になっていた。私は「倍速批評」を掲げておきながら、「倍速視聴」は一度もしたことがないフェイクだ(逆にリアル?)。しかし、もちろん素朴な「倍速視聴」批判をする気もない。「倍速視聴」とフリーレンというキャラクターの親和性は興味深いなと感じた。

素朴な「倍速視聴」批判でなく、それ自体について考え始めると、そもそも速度に限らず、私たちは異なる視聴体験をしていたと理解できるだろう。サブスクリプションサービスが普及するずっと以前から。どの時代の、どの視聴環境が正しいか、そんなことはどうだって良い。それは言語の用法のように進化していくものだろう。再現不可能な、極めて個人的な文脈と作品がどう関わっているのか、これこそが少なくとも私の批評には重要なのである。

先日、Twitterのスペースでも話したが、美術館女子・エコテロリスト的批評というものを久しく考えている。詳細は省略するが、美術品をある種の背景とし二重の鑑賞物を立ち顕せるアイドルや「若者」の在り方、または美術品に接着剤で自らの手を貼りつける活動家の在り方を再考したい。

4枚のキャプ画と140文字で構成されるTwitterにおける広義の批評に主体は存在しない。それは良くて早押しクイズ、悪くて百人一首だろう。彼らは「線」に注目する。しかし、実際には、どこに「線」が引かれているのだろう。彼らは「鏡」に注目する。しかし、実際には、誰がそこに映っているのだろう。

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