無我を知ることはただの入り口に過ぎない

仏教について書かれた内容を見ているとまるで無我を仏教的な奥義か何かのように思っている方がいます。この無我を空や縁起に置き換えても良いですが、いずれにしても、これらを知ることで仏教を知ることができていると考えるのは誤りです。無我を観るというのは入り口に過ぎず無我を見た結果として涅槃の経験(=悟りの瞬間)があってようやく第一段階です。

なので、無我は答えではありません。答えの過程で学ぶものではありますが、答えそのものではないのです。空や縁起なども同様です。それは「その先」を経験していない人には分かりません。

よくスピリチュアルの人なんかも「人生という物語から出る」みたいなことを言いますが、これも悟りではなく入り口の話です。人生を自身の作り出した物語として見ることができるようになって初めて、無我(の一端)がわかるし、無常や苦という「法」の性質もわかるようになるのです。だからスピリチュアルな話をしている人は、基本的に入り口の話をしているに過ぎません。そしてその入り口からの進み方を知らないのです。

しかし彼らはなぜ「真我」というものに引っ掛かってしまうのでしょうか。それは仏教の実践を深く経験した人間ならある程度予想を立てることができます。

まず禅定における体験が挙げられます。禅定における変性意識においては、おそらく頭頂葉などの空間認識を司る部分が機能しなくなるために、他者や外界との一体感を強く感じます。これは人によりますし、方法によっても若干変性意識の性質は変わってきますが、そういった経験は私にも何度もあります。

特に仏教の実践で言えば慈悲の瞑想で禅定に近い状態にいくと、非常な多幸感と自身の境界が消え去り世界と一体化するような全能感を感じることがあります。これは確かに人間が経験できる中で最も幸せな経験であると言えます。しかし、それは一時的な状況に過ぎません。そう言う状態が何日か続く場合もありますが、やがて消えてしまうものです。そしてそれを一度経験してしまうと、それに執着してしまうのです。

もう少し高度なものとしては、観照者、高次の自己などと言われるものがりますが、このような意識と禅定の体験が相まって「真我」と捉えられる傾向にあるように感じます。これは仏教的に言えばまさに「観察(ヴィパッサナー)」が可能になった状態を別の言葉で示していると思われます。やはりこれも入り口の話でしかありません。

彼らが法(ダンマ)の話をできないのは「そこ」をゴールにしてしまっているためです。仏教ではさらに観察を続け執着から抜け出す「厭離」へ向かわなくてはなりません。そう言う視点が不二一元論などのヒンドゥイズムにはないのです。

これは率直に言ってしまうと大乗仏教にも言えて、ヒンドゥ思想の影響を受けた密教や老荘思想の影響を受けた禅なども批判の対象になってしまいそうですが、今日はこの辺りでやめておきます。

読んでいただきありがとうございました。

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