「みんなのうらみ」からは逃れられない
インターネットを渦巻く業火は、対立者を焼き尽くすまで、決して満足しない。
そして、一度、誰かを焼き尽くすことに成功したならば、それは成功体験となって、その欲望は何度も何度もリフレインするようになる。
炎上が発生したとき、「なぜ謝罪しないのか」「削除すればすむのに」などと言ってしまえるのは、それが他人事にすぎないからだ。
私はインターネットの炎上史を、ここ十年ぐらい、ずっと観察してきたが、謝罪や削除対応で許された事例など一つも存在しない。
むしろ、そのような「真摯な対応」は、成功体験というガソリンを提供し、炎上している人たちはその「快感」を求めて、ヒートアップするのが常だ。
鎮火に成功した事例のほとんどが、「無視」という対応をとったものだ。
森永のアイスボックスや日経新聞などは無視した事例だが、結局はなにも起こっていない。というか、もう炎上させた当人達も、忘れてしまっているのではないだろうか。
しかし、絶対に忘れない人々もいる。
炎上で謝罪させられたあげくに、「キャンセル」の犠牲になった人々だ。
いじめと同じで、やった側はすっかり忘れて、どころか「擁護した奴が悪い」のような歴史修正すら脳内で行っている一方で、やられた側は忘れていない。
「炎上」という言葉は、どこか自然発火のような、誰がやったわけでもなく、ひとりでに燃えたような印象を与える言葉だが、実際には、いじめと同じで、火のような言葉を投げかけてきた一人一人の言葉の集積の上に発生する現象だ。
いじめと同じだ。一人一人の意志は希薄でも、数が集まれば、大きな傷を与える「炎」になる。
そして、燃やされた側は、彼の炎に火をくべた人々の一人一人の顔を、決して忘れはしないのだ。
温泉むすめに関わった地元の方々、赤十字でポスターの企画に携わっていた職員達、アツギで企画を立てた社員、放火の脅迫を受けた書店の人たち……彼らはどういう悪し様な言葉をぶつけられたか、どうやって炎上に追い込まれていったかを、決して忘れはしないだろう。
いじめがそうであるように、その火傷の跡は、生涯において残り続けることになる。
いま、トゥーンベリ・ゴン氏らをはじめとしたアンチフェミが、絶大な発信力を持っているのは、そういった炎上で受けた傷の痛みを忘れない人々の、本当に一人一人の草の根の「恨み」の集積なのである。
アンチフェミのポストに「いいね」をつけたと、噴き上がる人々が見落としているのは、そのアカウントの中の人が、「いいね」を付けたときの感情だと私は思う。
それを告発して、会社が謝罪文を出して、あるいは、仮にその社員が処分されたとしても、そこでその人間が消えて無くなるわけではない。
けっして、人間の思いは消えないのだ。
その力を無視して、運動的に勝利すればいいのだとして、対立者を炎上させ続けたその果てが、今だ。
フェミニストが炎上が起こすたびに(炎上は起きるのではない。誰かが「起こす」のだ。)、一人、また一人と、トンベリの群れは膨らんでいく。
現代リベラルの一つの病理は、この「リベラルの正義の犠牲になった人々の憎悪」が見えない、あるいは見ようとしないという点にあると思う。対立者の痛みを引き受けようとせず、自己には一点の曇りもないというスタンスを決して譲ろうとしない。
Colaboの一件もそうだ。暇空氏を熱狂的に支持し、私財をなげうって寄付する人々がいる背景には、この「みんなのうらみ」があると私は思う。
その人々をミソジニーだとか差別主義者だとか切り捨てて、視界から外すか、「キャンセル」すればそれで解決だ、とみなしているならば、今よりも更に大きな「みんなのうらみ」が、やがて社会を飲み込むことになるだろう。
そしていつか、不可視の包丁が、その持ち主を無視してきた者の背中を刺し貫くときがくる。
以上
青識亜論