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マシュマロ長文回答(マシュマロ3つ)

長文マシュマロくれた方、ありがとうございます。非常に勉強になります。


引用されている小宮氏もそうですけど、「抑圧」って言葉自体を使ってないですよね。

実際、何が「抑圧」で、何が抑圧に由来しない「良いジェンダー(非抑圧的なジェンダー)」なのかって定義も議論が深まっていないので、抑圧を軸に説明するとしても、まずはそこからでしょうね。

スタンフォード哲学事典の引用ありがとうございます。

何が抑圧なのかを探し回ってるというのはそのとおりだと思いますし、加えて言うと、気にくわない格差だけをとりあえず「抑圧」に放り込むというような、アドホックな使用方法になってないかなというのが気にかかります。

論者によって語義や定義の範囲が違うというのは、まあ人文・社会科学あるあるなので、それは仕方がないと思うのですけれど、せめて論者の中である一定の統一的な使用法がなされていて、それがその論者だけではなくて、支持者が一定理解してその用語を使用している、ぐらいは求めたいところですね。

まあ、そうなってくると平等とかジェンダーフリーって用語も怪しい(アンコレさんが議論冒頭に指摘したとおり)のですが。

ちょっとマシュマロで議論を続けるとTLが埋まっちゃいますので、続きがあれば、本稿の下にコメントを付ける形で続けていただければと思います。


(2024.3.20追記)

なるほど。だんだんわかってきました。ただ、参政権や財産権といったような基本的人権はもはや議論の対象ではないわけじゃないですか。抑圧のほうがより適切であろう、という主張を受け入れるとしても、議論はあまり前に進んでいないように思います。

単純平等よりも射程の広い社会問題を扱いたいために、平等ではなくて抑圧という言葉を使うようになっている、という話はわかりました。私の大元のnote記事の内容のうち、ジェンダーフリーを「ジェンダーに基づく抑圧(gender-based oppression)」に置き換えても、私は一向にかまわないと思っています。

ただ、そうであるとしてもなお、思想的にあまりに無内容ではないか、という私の主張は特に変わりません。むしろ、私はジェンダーフリーとか「ジェンダーからの抑圧」という問題軸に、フェミニストが拘泥する意味ってあるんだろうか、と考えているんですよ。


であるなら、そもそも、フェミニズムの求める社会と家父長制の差異ってなんだろう、って話になると思うんですよね。極端な話をすれば、男女の生物学的差異が存在するからこそ、男は仕事、女は家庭といったようなジェンダーが生まれて、それが家父長制につながってきたわけじゃないですか。

例えば、前回のマロでおっしゃってたような参政権や財産権は、仮に性差があるとしても保障されるべき基本的人権だ、ということはできるでしょう。でも、そこから先の、女性の社会進出や、結果平等的なアファーマティブアクションの要請って、どういう道徳的基礎に基づいて理論構築するのか、というところがよくわからなくなってしまいます。

フーコーなんかの福祉国家批判なんかにあった気がしますけど、配慮と抑圧って表裏一体だと思うんですよ。生物学的差異に配慮したロールモデルを国家が用意するのって、そのロールモデルに合わない人からすれば、抑圧じゃないですか(その一形態として家父長制なんかがあるわけですけど)。

もちろん、アファーマティブアクションや、女性への優先的な金銭給付(例えば女子限定の奨学金など)のような形態であれば、確かに女性側にとっては抑圧的でない配慮と言えますが、それは有限のリソースを社会的に女性に分配しているわけですから、女性以外の人間から見れば抑圧ですよね。そうすると、そうした他者への抑圧を是認する道徳的基盤を、平等原則(ジェンダー平等)以外の場所からどうやって調達するのか? という倫理学的な疑問にどう答えるのでしょうか。

そう考えていくと、結局、リベラル的な倫理では無くて、保守主義とか伝統回帰を選択した方が整合的なんじゃないの? というのが、私がnoteで書いたところの問題意識です。より合理的なロジックがあるのであれば、是非ご教示ください。


もちろん、基本的人権についての制約が抑圧的であることについてはそのとおりですが、結果として男性が家庭や社会における意志決定者になったり、主従のような夫婦関係が存在したとして、必ずしも抑圧的であるとは言えないのでは?


Twitterのフェミニストの主張に耳を傾ける限り、その敵とする家父長制の伝統を一部取り入れた方がマシなんじゃないの、という気はします。

ところで、フェミニストは平等原則以外の場所から道徳基盤をどう調達するか?という論点には回答不能という理解で良いですか?



アンコレさんがブログ記事の最後に書かれているように、モデルが成立しうることは情報の非対称性が現実に存在することの論証にはなりませんから、功利主義の論理をアファーマティブアクションの根拠にするのは弱いと思います。合理的期待形成学派が主張するように、単なる情報の非対称性であれば、市場の裁定行動によって長期的には是正される可能性が高いと思います(もしも女性人材の不採用的な均衡が、単なる情報の非対称性……というか限定完全合理性によって生じているなら、営利企業は、アファーマティブアクションに相当するような「長期投資」を行うことによって、不合理を是正し、他企業を出し抜く収益を上げることができる)。したがって、制度的な女性優遇をするまでもなく、市場に委ねればいいことになる。

あと、功利主義の立場から女性の社会進出を是認するのは、新自由主義的な倫理観であって、じゃあ女性の社会進出が企業の長期的収益につながらないなら、否定してもいいのかって話になりますよね。実際、上野千鶴子先生あたりは、新自由主義化するフェミニズムを官製フェミニズムとか言って批判してたように思います。

徳倫理に寄せていくのも怪しいと思います。育児と出産こそは女性という性別固有の徳だ、みたいな主張もできちゃうわけじゃないですか。

>女性の権利拡大・地位向上運動の総称

それはそうなんですよ。でも、それって思想じゃないよね、と私は思うんです。運動には何らかの正当性が必要で、平等原則とか自由主義とか、なんらかの客観的な正当性を説明する論拠が必要だと思うんですよ。

いやまあ、そんなもんはいらん、階級闘争上等だ、っていうならこの議論はそこでおわりになるわけですけど。どうなんでしょうね。


歴史的な低水準均衡の理論で言うと、歴史的要因の改善のためにスキルの低い女性を高い地位につける(アファーマティブアクション)わけですから、一時的に社会厚生が低下しますし、均衡時点で高い地位にいた男性のリソースを女性に配分するわけですから、パレート改善になりませんよね。

ご掲示の論文をざっと読みましたが、女性が高水準均衡に移動することによって、雇用主や他の労働者の効用を損なうこと無く、女性の効用を高めることができるというのは、一見説得的ですが、時間や、その移動に伴うコストをまったく無視したモデルであるように思われます。仮に男女の労働能力に本質的な差異がないとしても、経済主体の期待は一夜にして変化しないわけですから、男女差別の完全な禁止は、歴史的要因によって低スキルになっている女性を(繰り返しますが、期待という要素は粘着的なので、仮に制度的にキャリアが保障されたとしても、直ちに全女性が高スキルの習得を目指すわけではありません)、分不相応に高い地位につけることになります。そうした措置がもたらす不経済が、当該モデルでは考慮されていません。ここで生じる損失は、雇用者や消費者に悪影響になるので、パレート改善ではなくなります。また、雇用や教育のリソースが限られている場合は、男女の労働者で取り合いになりますから、女性に優先配分することは男性にとって損失となるでしょう。

徳倫理について。妊孕性というのは一つの能力であり、しかも社会にとって不可欠の能力ですから、その優れた能力を持つ女性達は、妊娠と出産に専従すべきである、というような主張も、徳倫理からは導けてしまうのではありませんか? もちろん、妊孕性を上回るほどに革命的な科学芸術の分野で貢献できるならば別ですが、ほとんどの女性は黙って子どもを産め、みたいな結論に至ってしまいそうに思います。


おお、これは面白い論文ですね、ありがとうございます。参考になります。