私の戦闘記①

こんにちは

前の記事に引き続き、書いていこうと思います。


自分の感じる痛みは、相手にどれくらい伝わっているのだろう、と思う。言葉は適切で理論的だから、私の中に生ずる感情は幾分も届いていない気がする。

私は、5人家族の末っ子に生まれた。世の中では、末っ子は甘やかられるイメージにある。祖父母から両親へ、両親から兄弟へ、兄弟から末っ子へと愛情はどんどん重なって伝わる、はずなのだろう。

私はそうではなかった。私は、家族にいじめられた。ストレスのはけ口にされ、愛情より、ストレスが重なって、私に届いた。

私が生まれた家には母方の祖父と両親、姉がいた。

私の両親は、早くに母親を亡くしており、私が生まれた頃には、祖父母としては、母方の祖父しかいなかった。

私の記憶が蘇るあたりでは既に、両親の仲はあまり良くなかった。何かしら喧嘩していた。特に、母が父に文句を言っていた。

◯◯(父親)は行動が遅い!、父親はバカだ!と。

それに怒った父が手を挙げ始めると、母は泣き、祖父に助けを求めていた。そんなことの繰り返しだった。

早く家を出たい。

そう言い始めたのは中学に上がった頃であったと思う。家に帰ると、母がいる。中学生の頃は母親に洗脳されていて、母は可哀想な人なんだと思っていた。化けの皮を剥がした今の母親を、あの頃の自分に見せてあげたいと思うが。可哀想な母を救うためにも、一緒に家を出よう。大学は地方に出よう、そう思った。本当に怖い洗脳だった。

家族で唯一、私の味方だったのは祖父だけだろう。祖父は本当に優しかった。怒鳴って、器を投げる母から、私を厄介者扱いする母から、無関心で、見ないふりをする父から、私が子供として生きる権利をくれたのは祖父だった。

そんな祖父は、私が中3の夏に、亡くなった。あの時から私は大人にならなければいけなかった。

祖父が亡くなってから、両親の仲は、良くなりつつあった。それは子供の私にとって嬉しいことなはずなのに、馬鹿らしく思えた。同時に、両親の不仲の原因は、祖父にもあったのかもしれない、と思うようになり、私は動揺していた。

結局、私は変わっていく家族についていけなかった。良く言えば、深く祖父を愛していたし、手のひらを返したよう仲良くする両親がどれほど幼稚であるかに気づいていたのだろう。

私の高校3年間は、ほとんど精神科での入院で終わった。もっと言えば、高校を卒業してから1年間、計4年間入院していた。

そうして、今、私は大学生になった。お金が無くて、地方には出れなかった。奨学金だって、そういくらも借りれるものではない。

私は両親に鎖で繋がれた犬だ。身動きしようとすると手や足に絡まるこの鎖を早く断ちたいと思う。

私が綴った痛みは、どれくらいの人に伝わるだろうか。

もし伝わらなかったとしても、この痛みがいつか希望に変わることを信じている。


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