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【創作物語】コウコさんと空泳ぐデメキン

長い髪の毛を背中まで伸ばしたその人は、コウコおばさんと呼ばれていた。おばさんと言っても、実際はおばあさんといって差し支えのない年齢のはずだ。髪の毛は真っ白だし、水分を失って骨張った手の甲は、紛れもなく老人のそれだ。それでもその人がみんなからおばさんと呼ばれるのは、大抵の老人にはおよそ感じることのできない、ほのかな色気を全身にまとっているからだと思う。髪の毛を片方に寄せて手ぐしでとかす姿は艶めかしく、笑うときは、上品な口元をニコッと上に引き上げる。決して歯を剥き出しにしたりなんかしない。そしてそんな微笑みを、いつどんな時も浮かべているのだ。雨の日も、風の日も。

 コウコおばさんはホームレスだ。
おばさんはそんな人だから、私は当初、彼女のことをホームレスだとは思っていなかった。確かに洋服は薄汚れているし大体いつも裸足だが、それはなんというか、おばさんがどこか浮世離れしたメルヘンな人だからだと思っていた(それもおかしな理屈だが)。
 興味を覚えた私は、コウコおばさんのことをよく観察するようになった。
おばさんの定位置は、最近は駅前のスーパーの入り口付近にある大きな木の下だ。そこだと雨を凌げるからだと思う。そこで足を伸ばしてゆったりとくつろぎながら、彼女は道行く人々をただ眺めているのだ。
 コウコおばさんは一年中同じ洋服を着ている。黒い厚手のパーカーに、小花柄の布を縫い合わせたパッチワークのようなロングスカート。寒い日はパーカーのフードを目深にかぶって、ただじっと木陰に座っている。
そういうホームレスの姿は至るところで見かけるが、コウコおばさんが同じことをしていても、なぜかそれがマッチ売りの少女のように可憐に見えてしまうから不思議だ。
 子どもも好きらしい。子連れの買い物客が側を通ると、コウコおばさんは赤ちゃんや幼児に微笑みかける。
 そう、微笑むのだ。
 以前、おじさんホームレスが同じように笑顔で子どもを見つめていたが、それがニヤニヤと笑っているようにに見えてしまい、あまり良い気持ちがしなかった。おじさんは慈しみの眼差しで見つめていたかもしれないのに。
そんな偏見を持っている私でさえ、コウコおばさんの笑みにはほっと温かいものを感じた。
 彼女が一見ホームレスに見えないのには、もう一つ理由がある。
毎日同じ薄汚れた格好のわりに、不潔さがないのだ。普通、お風呂に入らなければ当然体臭がきつくなる。髪の毛は皮脂でごわつき、肌は垢で黒ずむ。コウコおばさんの肌は浅黒いが、それは垢というより、毎日を外で過ごすことによる日焼けのせいだろう。

「お母さん、コウコおばさん、いるじゃない?」

「あぁ、あのホームレスの」

「そう。でもさ、ホームレスだけど、全然汚くないよね?」

「そーお?洋服とかボロボロじゃない」

「それはそうなんだけど、毎日あそこで過ごしてるわりに、臭ったりとかしないじゃん」

「……そうねぇ。なんでかしら?」

 母はテーブルで生協のチラシを見ながら心ここにあらずといった返事をする。母にとっては、さほど興味のない話題らしい。私は軽くため息をつき、諦めて自分の部屋に戻った。

 それからしばらくの間、私は大学のテスト期間に入ったこともあって、コウコおばさん問題からは距離を置いていた。おばさんは相変わらず毎日いつもの場所で、いつものようにゆったりと座りながら道行く人を眺めている。
 そうしてすっかりおばさんのことを忘れ始めていたある日、何と彼女に関して新情報がもたらされた。情報の出どころは、まさかの母だ。

「ちょっとちょっと! パート先の田谷さんから聞いたわよ! コウコさんのこと」

「えっ、何なに?」

「コウコさん、週に2日、お風呂に入れてくれるお家があるんですってよ! だからホームレスにしては小綺麗なのねぇ」

「何それ? 友だちか何かってこと?」

「そこまでは知らないわよ。田谷さんもお友達からちらっと聞いただけみたいだし。そうそう、でね、駅前のコンビニあるじゃない?あそこのオーナーは昔……」

 母の話が脱線し始めたので、私は適当に相槌を打ちながら再びおばさんのことを考える。
 お風呂に入れてくれるお家とは何だろう?あの人にはそのような友人がいるのだろうか? いつも一人でいるところしか見たことがないが。友人でないとするなら、コウコおばさんのことを気の毒に思った人が親切で入れてあげているのだろうか。
 ……こんなことは大声では言えないが、私だったら無理だ。いくらおばさんがホームレスにしては小綺麗だとしても、それ相応には汚れているわけで、そんな人に自宅の風呂を使わせるのはなかなかの抵抗がある。よほど彼女と親しい人間じゃない限り、できないことだ。
 母の中途半端なネタによって、コウコおばさんの謎はさらに深まってしまった。

 翌朝、一限の授業があるのをすっかり忘れて寝坊した私は、大急ぎで支度を済ませると、小走りに駅まで向かっていた。
 駅までの一本道には、コンビニからクリーニング店まで様々な店が軒を連ねているが、昔ながらの小さなたばこ屋の辺りに差しかかった時、コウコおばさんが軒先にぺたりと座り込んでいるのが見えた。
 こんな場所で見かけるのは珍しい。しかし、今はコウコおばさんに構っている時間はない。経営史の授業は出欠が厳しく、絶対に遅刻できないのだ。
 私はおばさんの側を大股で通り過ぎた。

「ちょっと」

 静かな制止の声に、思わず足を止めた。今のは誰だろう?
 いや、私の半径5メートルの範囲には、私とコウコおばさんしかいないのだから、どう考えても彼女が呼び止めたのだろう。しかし、それが信じられないほど、発せられた声は澄んだ鈴のなるような響きをしていた。もっとしゃがれて低い声だとばかり思っていた。老婆とは、そういうものだと思っていた。
 コウコおばさんは、じっと私を見つめていた。やはり私を呼び止めたのはおばさんらしい。

「え……っと。私、ですか?」

 まさかおばさんに声をかけられるなんて思ってもいなかったので、私はつい動揺して口ごもってしまった。
 おばさんはニコリともせず、かといって怒っているわけでもなく、ただただ凪いだ海のように静かに言った。

「スカート」

「え?」

「スカートの裾がほどけてる」

 おばさんが私のお尻の方を指さすので、フレアスカートの後ろ側を覗き込んでみると、確かに裾のまつり縫いがほどけてしまい、折り目がベロっと下に垂れ下がってしまっていた。

「あぁ……ありがとうございます」

 なんだ、そんなことか。ほどけているのはごく一部分だし、正直あまり気にならなかった。
 そんな気のない様子が声に表れてしまったか、おばさんは続けて言った。

「みっともないわよ。学校に着いたら仮止めしなさいな」

「あ……はい。ありがとうごさいます」

 バツが悪いのと面倒くさいので、私はおざなりにそう言うとすぐにその場を離れてしまった。
 正直に言おう。おもしろくなかった。
 私の身だしなみがなっていないのは認める。それでも、ホームレスであるコウコおばさんに、身なりのことをどうこう言われたくないのは私だけではないと思う。
 そんな不満と少しの羞恥心を胸の中に抱えながら、しかしそれでも午後にはもう別の興味が頭をもたげていた。
 つまり、コウコおばさんという人のミステリアスな生態について。
 スカートの裾のほつれをみっともないというくらいだ。彼女は、以前はきっとそれなりに身なりに気を使う人間だったはずだ。それにあの出どころ不明な艶っぽさ。ホームレスではあるが、おばさんと同年代の女性よりもよっぽど美意識が高い。
 コウコおばさんは、一体どんな人生を送ってきたのだろう。いつから路上生活を始めるようになったのだろうか。
 気になり始めると、妄想は頭の中をどこまでも駆け巡る。一度言葉を交わした間柄だ。直接おばさんに聞いてみたい衝動に駆られたが、かといっておばさんと話している姿を近所の人達に見られるのは何となく恥ずかしい気がして、なかなか実行には移せなかった。
 そんなある日、絶好のチャンスが私に訪れた。近所の住宅街の中にある小さな公園のベンチに、ゆったりと腰かけるコウコおばさんの姿を見つけたのだ。
 周りには誰もいない。考えるより先に、足がそちらへ向かっていた。

「あの!」

 コウコおばさんがゆっくりと顔をあげる。特に驚いたりする様子はない。

「あの、この前は。ありがとうございました。スカートの裾のこと。あのあと友人にソーイングセットを借りました」

 おばさんは何のこと?というように小首をかしげて私を見つめていたが、

「そう」

 短く言うと、それ以上興味がないというように自分の髪の毛先をさわり始めた。素っ気ない態度だが、かといって拒絶の意志も感じず、私はドキドキしながらおばさんの隣にぎこちなく腰かけてみる。彼女はそれも気に留めず、髪の毛を手ぐしでとかし続けている。 

「あのぅ…。おばさんはずっとこの辺に住んでるんですか?」

 隣に座ったままなのも居心地悪く、焦って話しかけたはいいが、ホームレスであるコウコおばさんには適切な質問でなかったかもしれないと、言ってしまってから気づいた。
 おばさんは目の端で私を見やると、薄く笑い、

「そうよ。あなたが生まれるずっと昔からここに住んでるの」

 やはり鈴の鳴るような高めの声でそう言った。口をきいてくれたことに嬉しくなった私は、気を使いながらもコウコおばさんに矢継ぎ早に質問を投げる。

「なんてお呼びしたらいいですか?」

「コウコでいいわ。みんなそう呼んでいるでしょう?」

「はい。……コウコさんは、この街が気に入っているんですか?」

「そんなこと考えたこともないけど、ここで生まれたから、まぁそれなりの愛着はあるんだろうねぇ」

「ここで生まれたんですか?」

 予想外の言葉に、驚きを隠せなかった。
 ホームレスになってからこの街に越してきたんだと思っていたのだ。

「そうよ。ここで生まれて、この街で育ってきた。もちろん、子どもの頃からこんな生活をしてたわけじゃないわよ」

 おばさんは私の言いたいことを見抜いたようにそう言った。

「てことは、昔からの知り合いもいるんですよね? その……嫌ではないですか?」

「そうねぇ。嫌だったわよ。だから、この生活を始めた時は違う街にいたこともあったわ」

「それでもふるさとが良かったってことですか?」

 おばさんはその質問には答えず、代わりに私の顔を見て言った。

「あなた、せっかく可愛らしいんだから、そんなに背中を丸めてないで、もっと堂々としていなさいな」

 何の脈絡もなく言われ、私はまたしてもおもしろくない気持ちになった。
 容姿については触れられたくない。
 クリクリの目なんて表現をとっくに越えた、ギョロっとした瞳。それを指摘されるのが嫌で、いつも伏し目がちに歩き、それでもソワソワするからメガネも装備した。あだ名は言わずもがな、デメキンだ。

「……可愛くなんかないです」

「女の子は、笑顔でいればそれだけで魅力的なのよ」

  おばさんはそう言うと、おもむろに足元に置いてあるたくさんのビニール袋の荷物を両手に持ち、立ち上がった。

「散歩の途中だったからもう行くわ」

 思いのほか軽やかな身のこなしで、ふらっと私の前から立ち去ったのだった。

 その日から、私とコウコさんの交流が始まった。
 コウコさんを意識するようになってから、実は彼女がずっと駅前にいるわけではないのが分かってきた。昼間は目的があるのかないのか、街のあちこちを歩き回っていた(あえて徘徊とは言うまい)。朝は、この前のようにタバコ屋の目の前で座っているのを見かけることもある。
 そんなことが分かってから、私は時々コウコさんを道端で捕まえては、他愛のない話をするようになった。

「コウコさんの名前って、どう書くんですか?」

「幸せな子と書いて幸子よ」

「コウコさんは夜はどこで寝てるんですか?」

「駅前のスーパーの入り口のところにある木の下よ。土がふかふかして気持ちいいの。天気があんまり荒れてる時は高架下」

 いつの間にか側にすり寄っては不躾なことを聞く私を、コウコさんはちっとも邪険にしなかった。最初は興味本位で彼女に近づいたが、今は本当にコウコさんと仲良くなれればいいと思っている。なるべく人目につかないところでコウコさんと接触するようにもしていたのだが、気が付けばそんなことはどうでも良くなっていた。コウコさんにばったり会えば、そこに誰がいようと気軽に声をかける。そしてコウコさんはニコっと微笑む。私たちはそんな風に距離を縮めていった。

「あなた、その眼鏡は取りなさいな」

「似合わないですか?」

「そうじゃないけど、あなたはその眼鏡で自分の良さを隠しているでしょう?」

 コウコさんはそう言って私の顔をじっと見つめた。
 その瞳が、私の自信のなさを見透かそうとしているようで、思わず目を逸らす。

「私、デメキンって呼ばれてたんです」

それだけ言うと、後は察しろとばかりに私は黙った。

「そんなことないわ。むしろ下を向いて隠そうとしているから余計に目立つ。顔を上げて、堂々と笑ってればいいのよ」

 またそれだ。
 そんなことを言われても、嫌なものは嫌だ。

「コウコさんは、今でも女性として気を使っているんですね」

 嫌みっぽかっただろうか。でも、ホームレスのコウコさんにこの話題を持ち出されるとイライラする。

「そうよ。年を取ったって、私は女だもの。洋服も化粧品もないけど、私の価値は変わらないわ」

 コウコさんは、私の嫌みなどちっとも通じていないかのようにニッコリ微笑む。薄汚れた黒パーカーが薔薇色に見えるほど、その笑みは艶やかだった。

「昔、やっぱりよくモテてたんですか?」

「ええ、よく声をかけられたし、色んな人から求婚もされたわ」

 そうだろう。
 近くであらためて見れば分かる。コウコさんは美しい人だった。
 スッと通った鼻筋、今は痩せて落ちくぼんだ目元も、くっきりとした深い二重瞼の名残がある。

「結婚とか、しなかったんですか?」

「してたわよ」

「えっ」

 自分で聞いておきながら、既婚者だった事実を知ると思わず声が出てしまった。結婚していたなら、なおのことこんな生活をしている理由が分からない。

「結婚はしてたけど、長くは続かなかった。子どももいなかったし、別れるときはあっけなかったねぇ」

コウコさんはどこか遠くの方を見て呟いた。

「旦那さんの借金?」

 私は急に思い付いてそう言った。
 きっと、ギャンブル癖か何かで、全財産を失ったのだ。

「違う」

 コウコさんはニヤリとした。

「暴力もなく、真面目な人だったわよ」

「じゃあ、どうして……?」

「私の浮気」

 私は予想外の返答に、目をぱちくりして押し黙った。確かにコウコさんは美人だけど、昔の女性は今よりもずっと貞淑なのではなかったか?

「え、えーー? コウコさん、けっこうやるのね」

「既婚者の私をいいって言ってくれる人がいたんだもの。その情熱にやられてしまってねぇ」

 コウコさんはそのころを懐かしむように楽しそうに笑う。ほのかな色香を漂わせながら、こんな少女のような一面を見せるのだ。きっとその人はコウコさんのこんなところに惹かれたに違いない。

「それで、それが旦那さんにバレて離婚したんですか?」

「そうよ。着物一枚で家を追い出されたわ。実家は貧乏だったから、出戻りなんかできなくってね。それからこの生活よ」

「ひどくないですか?そりゃ、原因を作ったのはコウコさんだけど、野垂れ死にしろって言ってるようなものじゃない」

 コウコさんはそれでも懐かしそうに笑う。

「仕方ないわ。真面目なあの人を裏切ってしまったのは私だもの。でもね、傷つけるつもりは本当になかった。主人のことも心から愛していたわ」

 コウコさんは目を細める。
 私はその言葉に、何となく居心地の悪い違和感を覚えた。不倫は悪いことだってわかってるはずなのに、傷つけるつもりはなかった、とは。私には理解のできない理屈だ。コウコさんは、若いころは随分奔放で自分本位な生活を送っていたようだ。

「旦那さんは、今はもうこの辺りには住んでいないんですか?」

「離婚してすぐ引っ越してしまって、それっきりねぇ。私よりも年上だったから、もう生きているかも分からない」

「ふーん。奥さんを取られたのが恥ずかしくて、逃げちゃったのかもしれませんね」

「恥ずかしいと思ってたのは私も一緒よ。夫は資産家だったから、当時はいい暮らしをしていたのよ。それが、明日の食べ物にも困るようになってしまって。情けないしご近所さんに知られたくないしで、私もすぐに別の街へ移ったわ」

 若く美しく裕福だった女性が、一度の過ちで路上生活者に転落か。少し前まで、”ホームレスのコウコおばさん”という名前しか知らなかった彼女が、こんなドラマティックな人生を送ってきたなんて、不謹慎ながら私は内心で感動していた。

「それで、どうやって今日まで生き延びてきたんですか?」

「どうやって……。気が付いたら色んな人が仕事や寝食の世話をしてくれてねぇ。一時期は自立してアパート暮らしもできていたのよ」

「えっそうだったんですか? じゃあ、どうしてまた路上で暮らすように?」

「お金をだまし取られてしまったのよ。よくある話」

 コウコさんは相変わらずコロコロと笑っている。
 分からない。ここまでの壮絶な人生を送ってきて、どうしてそんなに笑っていられるのだろう。

「……後悔したことありませんか? あの時に戻れたらって。あの時浮気さえしなければって」

 私は、ある。
 というか、後悔しかしていない。
 あの時、酒井さんをいじめていた吉森くんを止めなければ。私がいじめのターゲットになることもなかった。デメキンとみんなの前でからかわれて、自尊心を傷つけられることもなかった。

「不思議なことにね、今の方が幸せなのよ」

 コウコさんは信じられないことを言った。

「今は失うものが何もなくて気が楽なの。太陽の光があったかいだけで幸せな気持ちになれるのよ。それに、たまに食べ物をもらえたり、お風呂に入れてもらったり、人の優しさをとても感じるようになったわ」

 コウコさんは、満足気な表情で空を見上げる。今日みたいなどんよりとした曇り空でも、彼女には何かありがたく感じるものがあるのだろうか。

「笑っていられない状況こそ、笑ってみなさい。そうすればいいことが起こるから」

 私を諭すように言ったその言葉は、妙に説得力があった。
その後も夢中になってコウコさんの話を聞いていた私だが、ずっと聞きたかったことをふと思い出した。

「コウコさん、さっきのお風呂の話、毎週お風呂を貸してくれるおうちがあるって聞いたことがあるんですけど、それってお友達ですか?」

「まぁ、そんなことも噂になっているの?」

 コウコさんに目を丸くして驚かれてしまい、私はバツの悪さに首をすくめた。調子にのってずけずけと聞きすぎてしまったようだ。そういえば、私はここまでコウコさんにあれこれ聞くばかりで、自分の話はほとんどしていなかったことに気付く。

「ごめんなさい、忘れてください」

「浮気相手よ」

「は?」

 私は今度こそすっとんきょうな声を出してしまった。

「昔の浮気相手のお家がお風呂を貸してくれるの。今じゃいいお友達なのよ。……それより」

 コウコさんが私の肩越しを見つめて言葉を切った。

「もう帰った方がいいんじゃないかしら」

 意味が分からずコウコさんが見ている方を振り返ってみれば、母が、怒っているような悲しいような、複雑な表情で遠巻きに私たちを見つめていた。

 それから、私はコウコさんに会いに行くのをしばらくやめた。あの日、母の表情が物語っていたとおり、家に帰るなり、コウコさんと関わらないようにと窘められたのだ。みっともないとか恥ずかしいとか、母はあからさまにそうとは言わなかったが、止める理由なんてそこしかないだろう。私はそれに同意してコウコさんと会うのをやめたわけではない。しかし、母の言うことをはねつけられなかった時点で、彼女に会う資格はない。
 駅から家までの道のりが途端に楽しくなくなった。以前はコウコさんを探すのにワクワクしていた街のあちらこちらが、急に価値のないガラクタに変わってしまったようだ。
 だから代わりに空を見上げてみた。秋のひんやりとした空気の中で、頬をさす太陽の光がぬくぬくの布団みたいに心地よい。
 確かにコウコさんの言った通り、それだけで心の底がじんわりとするような幸せを感じた。

 それから1ヶ月が経ち、木枯しが底冷えするような冷気へと変わり始めた。
 あれからコウコさんの姿を見ていない。
 ばったり会って無視するなんてことは到底無理なので、その時間にコウコさんがいそうなところは敢えて避けていたのだ。それに、もしも遭遇してしまっても気付かないフリができるように下を向いて歩いていた。
 そしてさらに一ヵ月。いよいよ本格的な冬が到来し、マフラーに顔をうずめる私ははますます下向きに歩く。
 いまだにコウコさんの姿を見ていない。さすがにおかしいと思った。
 初めのうちは確かにコウコさんのいそうなところを避けていたが、毎日毎日そんなことをできるほど私も暇ではない。そうすればどこかしらで彼女に出会うはずだったのに、見当たらない。あの駅前の木の下も当然覗きに行ったが、コウコさんがいた形跡はなかった。
 コウコさんの方も私を避けている――?
 ふとそんな風に考えてみたが、彼女にそうする理由はない。私は毎日それとなくコウコさんを探すように街を歩き、あの存在感のある姿を求め続けていた。
 どうしてもコウコさんを見つけられないまま幾日もの日々が過ぎ、私はとうとう最後の可能性に賭けてある場所へ向かった。
 駅へ続く道沿いのタバコ屋。両隣の雑居ビルに飲み込まれてしまいそうに小さく佇む、昭和の名残を残した赤いビニール屋根の店構え。タバコ屋だとばかり思っていたが、外からじっくり店内を覗けば、日本茶の茶葉店でもあるらしい。
 店内には客も店主もいない。当然コウコさんも。中に入る勇気もなく、私は仕方なく踵を返そうとして、

「ちょっと待って」

 後ろから呼び止める声に足を止めた。
 店の中から、小柄なおばあさんがゆっくりと出てくるところだった。杖をついている。足が不自由なようだ。

「コウコちゃんとよくおしゃべりしてた子だね?」

おばあさんはゆっくりと、しかし精一杯早く歩こうと杖を前へ前へつきながら私に話しかける。

「そうです。タバコ屋の奥さんですか? あの、私コウコさんを探していて」

「コウコちゃんは死んだよ」

 私は、言われていることが理解できずに、ポカンと口を開けながら、おばあさんを束の間見つめた。

「二週間くらい前だったかね。急に寒くなったでしょ。もう歳だから、この寒さは越せなかった」

「……うそ」

 信じられない。あのコウコさんが。
 ――死んだ?

「最近はあんたの姿を見かけなかったからどうしたかと思ったけど、知らなかったんだね」

 自分の名前すら明かさず、面白半分に彼女に近づき、最後は自分勝手に避けまくった結末がこれか。私はどうしてもコウコさんが死んだという事実を受け入れることができず、ふらふらとその場から離れた。
 涙は出ない。
悲しいというのも違う気がする。それくらい、私とコウコさんの人生が交差したのは、ほんの一瞬だ。ただ、無性に喪失感を覚えていた。子どもの頃、毎日のように遊んでいた公園が取り壊されて駐車場になったのを見たときの、当たり前にあった日常の一部が、ある日突然なくなる時の感覚にそれは似ている。そこに加え、コウコさんが最後に他人と交流を持ったのが自分かもしれないと思うと、苦い気持ちで口が一杯になる思いだった。もうすぐ死ぬと分かっていれば、母に強く止められようが、彼女のことを避けたりなんかしなかったのに。
 私はその日、一睡もせずコウコさんとの日々を思い出していた。ソファでくつろぐかのように木の幹にゆったりと寄りかかっていたコウコさん。背筋を伸ばしてしゃんとした足取りで歩くコウコさん。長い白髪を手ぐしでとかすコウコさん。どの場面を思い返しても、記憶の中の彼女は微笑んでた。
ただ唇を笑みの形にしているだけではない、心から満足したような笑顔が、頭の中を埋め尽くす。

 翌日、気が動転して無言で立ち去ったことを詫びるために、私は再びタバコ屋を訪れた。
 おばあさんは、今日はカウンターの奥でちょこんと座っている。

「こんにちは」

「あら、昨日の……」

「昨日はすみません。びっくりしてしまってつい……。あの、教えてください。コウコさんはどこで亡くなっていたんですか?」

 せめて、コウコさんの最期の場所だけは記憶に留めたいと思った。

「駅前のスーパーの大きな木の根元よ。そこに寄りかかって眠るように亡くなっていたって」

 おばあさんはさも気の毒そうにそう言ったが、私は反対に安堵した。

「よかった……」

「え?」

「コウコさん、あの場所がお気に入りでした。土がふかふかで、座ってると気持ちがいいって言ってたんです。だから、せめて最期がその場所でよかったなぁって思ったんです」

 おばあさんは難しい顔で自分の手元をぼーっと見ていた。そこにどんな感情を浮かべているのかは分からないが、昨日の私のように、コウコさんとの思い出を回顧しているように見えた。

「コウコちゃんの人生は、何だったんだろうねぇ」

 その呟きの中に、かすかな哀れみの気配を感じ取った。
 けれども、私は自信を持って言える。

「コウコさんはいつも笑っていました。何にもないからこそ、小さな幸せに気付くんだと言ってました。きっと、死に顔も笑っていたと思います」

 おばあさんは俯いたまま、昔を思い出す時特有の、目を細める仕草で言った。

「そうだねぇ。コウコちゃんは昔からよく笑う子で、あんな生活を始めてからも、それは変わらなかったからねぇ」

「……おばあさん。あの、コウコさんがお風呂に入れてもらってたおうちって……」

「あぁ、ここだよ。10年くらい前から、うちでコウコちゃんの風呂の世話をしていたんだ」

 おばあさんはうなずいた。
 確信めいたものがあるわけではなく、ただの勘だったが、よくタバコ屋の前で座り込むコウコさんを目にして、それなりに親交があったのではないかと思っていたのだ。

「コウコさんが言ってたんですけど、その……タバコ屋さんとは昔……」

 コウコさんに思いのほか好意的な様子のおばあさんに、私は思い切って切り出してみたのだが、それでもさすがに言葉に詰まった。おばあさんは、何を言い淀んでいるのか分からないといったように私を見ていたが、やがて合点がいったように苦笑いする。

「あぁ、コウコちゃんから聞いたんだね。そうだよ、昔うちの亭主とコウコちゃんはいい仲だったんだ。風呂に入れてやったきっかけも、うちの亭主があの子を不憫に思ったからだよ」

「おばあさん、寛大ですね」

「そんなわけあるかい。最初は大反対したよ。昔のこととはいえ、何が悲しくて亭主を取った女を世話してやらなきゃいけないんだい」

 この時ばかりは、おばあさんは苦虫を嚙み潰したような、不快そうな表情をして見せた。

「どうしてもとあの人が押し通すもんだから、我慢してたんだけどさ。コウコちゃん、風呂に初めて入れてやった日、亭主だけじゃなく私にも屈託のない笑顔を見せて、ありがとうなんて言うんだよ。最初はバカにされてるんだと思ったけど、あの子は心からそう思っていたみたい。私なんて、何十年経っても恨みや嫉妬で一杯だったってのに」

「ご主人は、今どこに?」

「亭主は3年前に死んだよ。その時もコウコちゃんたら、道端に生えてる花を摘んで集めてうちに訪ねてきてさ。ぽろぽろ涙を流すんだから調子が狂うよ。その時ばかりは2人でおいおい泣いたねぇ」

「コウコさんて不思議ですよね。何だか小さな女の子みたいに純粋で」

「そうだね。だから私も毒気を抜かれちゃって、亭主が死んでもずっと風呂には入れてやってたってわけ。不思議なもんだね。浮気が分かった時はあの子のことを殺してやるなんて思ったのに」

「コウコさんは、たばこ屋さんは今ではお友達って言ってました」

「コウコちゃんらしいねぇ」

 おばあさんは喉の奥でククっと笑う。憎もうにも憎みきれない。そんな様子だった。

「昔はコウコちゃんの面倒を見てくれる人もたくさんいたけどね、今じゃもう私らだけになっちゃったんだ。だから、最後に若い話相手ができてよかったと思ってるんだよ。ありがとうね」

 そうなのだろうか。コウコさんが私との時間を少しでも楽しみに思ってくれていたなら嬉しいと思う。でも。

「私と出会わなかったとしても、コウコさんは幸せだったと思います。きっと、死ぬ瞬間まで」

 今の方がずっと幸せ――コウコさんの鈴の音のような声を思い出す。多分。きっと。あの言葉にうそはない。
 私は、その日からメガネをやめた。急に外に晒されることになった長年のコンプレックスに、私は初めは強い抵抗感を覚えた。でも、コウコさんが堂々とすればいいと言ったから、その言葉を信じて、勝手に約束だと思って実行している。
 まだコウコさんみたいに背筋を伸ばすことも、素敵に笑うこともできないけど、彼女と出会った意味をあえて探すとするならば、それはまずまっすぐ前を向いて歩くこと、そんな気がしたのだ。
 そして、軽くなった目元で今日も空を見上げてみる。
 メガネのフレームがない分、いつもの空は、海原みたいに大きく見えた。

 by たけちゃん




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