見出し画像

書評 踏絵を踏んだキリシタン~悲劇の中の強かさ~

絵踏といえば、江戸時代に行われてきた幕府による宗教弾圧である。学校の社会の教科書に掲載され長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産として世界文化遺産へ登録された。隠れキリシタンたちは弾圧により自尊心を奪われ、ある者は処刑され、肩身を狭くしながらも信仰を続けてきた。

絵踏は長崎町人や村人にとって義務だった。もし、踏まないものがいた場合、役人にも罪が及ぶことになるため、行方不明者がいると、奉行所まで届けでなくてはならなかった。
中略。
これに正月風情も相まって、賑やかな雰囲気のなかで絵踏みは厳粛に行われた。郷方では、絵踏する場所が決まっていたことから、その周辺に市が出ていた。辺りはお祭りの様相を呈しており、絵踏みを終えた人たちは、ここを通り抜けて帰宅することから、商売として成立していたのであろう。絵踏が一種の興行化していた実態が看取される。

正月に一ヶ所に住民が集められる。こんな絶好の商売日はあるだろうか?絵踏は年中行事の一つになっていたのだ。これを知っていた幕府は日米修好通称条約締結時に諸外国から批判されていた絵踏を「自発的に既に廃止した」と政治的駆け引きに使った。

画像1

なぜ悲劇として語り継がれたのか?絵踏に使用する踏絵は長崎奉行所から各藩へ貸し出されていたため長崎町での絵踏が廃止に伴い他の地区でも廃止された。しかし、幕府の禁教政策は終わらなかった。

天草でも、キリシタンは以前からのとおり禁制とすることを念押しされている。各村に巡回する役人を、これまでどおりに派遣しており、島民には「村中の男女は残らず集まり、宗門改を受けるように」と伝えられた。

絵踏や宗門改をすることがキリシタンではない証明となっていた。その証明をしている限り人々がキリスト教を信仰していても、幕府はキリシタンと断定出来ない。また、全員に実施し記録することにより税の徴収などの住民の把握という行政としての役割を担っていた。
つまり、キリシタン探しから行政手続きというように目的が変わっていた。当初の目的は形骸化していったのだ。

文化2年の天草崩れによって、多数の天草島民が検挙される。
中略。
長崎奉行との連絡を密にしながら対処し、結果的には、天草島民は「心得違い」として処理される。換言すれば、「異宗信仰者」であり、キリシタンとは認定されなかったのであった。


幕府は愚かだろうか?今日の私たちの周りにおいても形骸化したイベントはあるのではないだろうか?集まることだけが目的の会議や名ばかりの役職。今の社会とさして変わっていない。
幕府の弾圧はキリシタン達の信仰を無視し踏みにじった行為であることはいうまでもない。
隠れキリシタンとは政治的弾圧という悲劇の歴史の裏で強かに信仰を続けていった人々のことであった。

執筆 Asami

〜小田桐あさぎ オンラインサロン 魅力ラボ 〜
仕事も、恋愛も、遊びも。
「自分らしさ」で全てを手に入れる

◆オンラインサロンのご案内
http://adorable-inc.com/miryokulab/

◆小田桐あさぎメールマガジン
https://55auto.biz/adorable-asagi/touroku/entryform2.htm

◆公式Instagram
https://www.instagram.com/miryokulab

◆公式Twitter
https://twitter.com/miryokulab

◆読書部Instagram
https://www.instagram.com/dokushobu1



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?