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「桜の森の満開の下」坂口安吾

noteでフォローしてる月坂弦さんという方が、「読んだことのないかたは是非」と紹介してくださったので、スマホで青空文庫をひらき町内の資源ゴミの立会当番で青空の道端に立ちながら読んでいた。そういえば前のゴミ当番のときに読んでいたのも坂口安吾だったなぁ、まえは堕落論だったことを思い出したら笑えた。
ただの偶然なのだろうけど、ゴミ捨てという行為が「人間の本質」の何かを暗示しているかのように感じてしまうのは坂口安吾のせいかもしれない。

さて、桜の森〜は、不思議な怪奇小説だった。
江戸時代より昔、人気(ひとけ)のない満開の桜の森は人々に恐れられていた。という風なことからはじまる。
ん?桜が怖い??
この恐れの感覚はワタシにはない。
いや、きっとないと思う。
そもこの街には人気のない満開の桜の森がない。
それに桜の下に人気がなくても、視界のどこかに人影がある。
もし人っ子一人いない満開の桜の森があったならどうだろう?
それでも怖くて行けないようなことはないと思う。
これは何かのメタファなのかとも思ったが、人々がキツネに騙されなくなったように、満開の桜の森を恐れなくなったのも、現代人のある種の感覚の喪失なのかもしれない、と思ったりもする。

さてさて、物語をざっくり振り返る。
満開の桜の森の下は怖いのだが他は何も、人殺しさえ怖がらず山の生活を愛する山賊の男と贅沢と宝飾を好み、生首での人形遊びと都での暮らしを愛する美しくわがまま女の婚姻生活が描かれる。
男は女のわがままで都での生活をはじめる。
宝飾と、それよりも生首を欲しがる女のために、男は女のためにせっせと生首を狩りにでかけ、女はその生首を並べて遊ぶ。
いつしか男は山の生活を思い出し、女を捨てて山へ帰ろうとするのだが、女に連れて行って欲しいと、「しおらしく」せがまれる。
山への帰り道、あれほど恐ろしかった満開の桜の下が怖くなく、森の半ばにさしかかるとおぶっていた女は鬼に変わり、男は鬼を絞め殺す。
殺した鬼は女にもどっていた。
そして散る花びらに埋もれ男も消える。

さて何か妖艶さは感じるのだが、、どう読んだらいいものやら。

サイコパスの男とパラノイアの女の共依存と現代的な精神医学に当てはめて読むのは、あまり面白くないな^^;
自然のなかの生活と都会での生活のメタファとするのも安直で哀しい。
というのも、なんとなく誰にでも思い当たる節があるような気がするからだ。
現実の人混みと不条理な生活からふと離れ、ひとり桜の散る花びらに囲まれ花びら以外に何も見えなくなったとしたら、もしかしたら山賊の男のように「自然に我にかえる」ことがあり、一人であることを実感し涙するのかもしれない。
人はだれも「孤独」であり、たとえば暗い部屋の中に一人でいると宇宙のなかにぽつりと浮かんでいるようなことをふと感じたりしないだろうか?
そのように、それよりも強く、桜の花びらのなかでは一人であることを思い出させ感じさせるのかもしれない。
花は散り虚空であり儚く、完全な孤独を知るなかで自己は消滅していくことを感じるのだろうか?
それは誰でもみることができる満開の桜の下の夢物語なのか、この世と桜と美と人間の流転の儚さとでも?……

なんて書いてはみたものの正直にいえば、現代人のワタシにはよく分からない感覚です。
この感覚のよく分からなさ、、、というのが「満開の桜の森」を恐れることができないという、失われた感覚なのかもしれません。

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