田んぼのなかの夢のあと

 田んぼに宿る命を「守る」ため、意志を一つにし農民が決起した。
 歴史のなかでは何度も繰り返されてきた命の強制収容が、この村の田んぼにも通告されたのだ。田んぼに生かされる農民は苦悩に打ちひしがれたが、そうした歴史のいくつかを辿るように、この村でも権力に対し妥協することはなかった。ある夜、農民は田んぼに砦を構え、来る日に備えた。砦では毎晩のように語り合い、士気を高めた。幾日過ぎただろう、立てこもる農民が疲れ果てた頃、あの夜明けはやって来た。攻め来る何十という政府軍に懸命な抵抗を試みるものの、絶対的な力のまえでは余りにも儚かった。ひとり、また一人と連れさられた。そして田んぼは、主のいない朝を迎えることになる。

 今では、涙と絶叫が溶け込んだあの夜明けを知る人も久しくなり、ただ長閑な風景が広がる。その東の外れには「闘魂」と書きなぐられたドラム缶が、農民の希望を内包したまま錆びつき、櫓に吊るされて佇む。その櫓を嘲笑しながらそびえ立つ、権力の具現である「管理棟ビル」は完成まじかを迎えていた。やがて残る全ての田んぼは殺され、都会からの多量な汚水の流入を引き受ける巨大な汚水処理プラントが生まれることになるだろう。ボクが一眼レフのカメラを持ってここに訪れたのは、あの闘いがあった過去も巨大プラントが威張る未来も想像できない、余りにも穏やか春の日だった。

 あの闘争から数年がたち、猶予期限を待たず田としての命を諦めさせられた土地も多い。余命を全うしようとする田んぼたちの狭間に点在する捨てられた土地では、人の背より高く草が茂り、その草が種々の野鳥を育んでいた。あぜ道を歩くボクから距離を計るかのように雲雀はけたたましく高く空に止まり、鷺は美しく白い翼を広げ、雉は足元から突然飛び出す。野鳥たちは一様に人を拒み、近づくことを許さない。ボクの持つ安いレンズでは、いつも野鳥たちの姿を鮮明に捉える距離まで近づくことはできなかった。野鳥たちは力で適わぬ敵に対し、俊敏な感覚と自由な翼を駆使して、逃げるという知恵と脳力をもっているのだ。少なくともその時までは、どんな野鳥もすべて同じだと思っていた。しかし奴は違っていた。

 奴と出会ったのは、今も田んぼとしての命を貫く一画である。咲き誇る蓮花の上を、悠々と歩く奴の姿が目に入った。ボクはカメラを握りしめ、奴に照準を合わせる。まだ遠すぎる。息を殺し一歩づつ時間をかけて距離を詰める。二歩、三歩。慎重に、さらに一歩、しかしここまでだ。ファインダーを通した奴の小さく黄色い嘴が振り向いた。ふぅー、気づかれてしまった。いつもと同じように、ここで飛び去るのである。ボクは緊張を解き、微笑みながら目を閉じた。この緊張と安堵はボクに清々しさを与える。カメラを降ろし、飛び去る奴を見送ろうとした。が、奴はもとの場所にいたままだった。それどころかボクに向かってくるではないか。「アホや」思わず声に出し呟いてしまった。力関係を計算できない野鳥もいるのだろうか。予想しなかった奴の行動に、力では絶対優位にあるはずのボクの方がたじろいでしまった。しかしこうなれば、堂々と奴に近づき照準を合わせることができる。

 ファインダーの中に完璧なまでに捉えられた奴は、翼を広げ奇声を上げながら、さらにボクに向かってきた。とても好戦的な奴だ。ボクは心ゆくまで対峙し、しばらくの間その時間を楽しんだ。何度もシャッターを切れたことに満足し帰ろうとしたとき、奴が「アホ」ではないことに気がついた。ボクの足元に奴の巣と卵があったのだ。それは奴の「守る」ものだった。だから絶対に勝てぬ敵と知りながら、果敢に立ち向かってきたのである。それが奴にとって「守る」ための闘いだったのだ。

 一週間後、ボクは奴に会うため、再びそこへ訪れることにした。奴の卵も孵っているかもしれない。早く会いたかった。二度目のデートはいつの時も最高に楽しいものである。しかし、浮かれた気分で会いにいったボクの期待は裏切られたのである。奴は既にそこにはいなかった。そして奴の家と家族もまた姿を消していた。奴の「守る」命は、耕耘機によって有無を云わさず奪われていたのである。ボクは溜め息をつぎながらあの孤高の戦士のことを想った。奴はきっと耕耘機にも果敢に立ち向かったのだろう。

 思わず仰いだ五月の透き通った空に、この田んぼで過去にあった風景が、一瞬浮かんだ気がした。

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