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野垂れ死に同盟

ずっとまえ、ある友人たちと話をしていた。
独身同僚が死んで2日後に発見された、という。
孤独死である。
友人たちは、ひとりで死んでいくなんて惨めだ、という前提で話していた。
ワタシだけが、別にいいんじゃない孤独死で、と言った。
それが彼らには想定外すぎて、全く理解されずスルーされた。
ワタシが何も言ってないかのように話しがすすんだ。

介護の初任者研修のなかで「死」についての項目があった。
てっきり、キュープラなんかの死の瞬間の話になるのかと思ったら違った。
いかに死にゆく老人の希望にそう介護をして看取るのか、という話だった。
講師が研修生ひとりづつ「自分ならどんな最期を迎えたいか?」なんて聞く。
ワタシは、いつもの森で彷徨いながら倒れ土に還りたい、と答えた。
沈黙のなか講師と他の研修者に異星人をみるような眼差しをむけられた。
講座の腰を折ったのかもしれないな。

また別の知人たちの呑み会で葬式や墓の話なんかがでた。
この年齢になるとよくある話題である。
そこでは小さな声で、津波にさらわれるか土砂崩れに埋もれたい。
海の藻屑、土に還り、発見されずに忘れ去られたい
と言ったら、気狂いとされ、激しく罵られた。
別の意味で不謹慎だと反省した。

それからは、どこでそんな話題になっても微笑みながら何も言わなくなった。

そんなあるとき、とある学習会のあと呑み会があった。
新しく出会った人々ともそんな話題になる。
ワタシは、ふいに沈黙の自制を忘れて、
「野垂れ死にたい」と呟いてしまった。
呟いた瞬間、ほんの短い間があいたような気がした。
それまでの何度もあった空気を思い出した。
また失敗したかあ、小さく、ふぅ、自虐的に嗤った。
でも、すぐさま、ボクも、アタシも、、、と呼応する声がきこえた。
え、とワタシは驚き、声の主を上目遣いにみた。
聞き間違いかと思った。
その反応に半信半疑だったのだけど、聞き間違いではなかった。
初めてであった。そして野垂れ死にで盛り上がった。
心からの微笑みをもって、、、、
ほんとうに野垂れ死ぬかどうか、野垂れ死ねるかなんて、どうでもよかった。
そう思っている感性が同じ、ってのが嬉しかった。
死ぬ時まで、そして死んでまで【社会】にお付き合いしたくないんだよな。
人間ではなく自然に還りたいんだよな。
でも、そんな確認なんかしない。
何も言わない。
確認なんて意味がないということも解り合える。

ワタシは、はじめて本当の友人ができた、、ような気がした・・・
同盟なんて組まないけれどね、なんとなく友人だね、ってさ。


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