「存在」を確認しあう作業が、傾聴の本質

カウンセリングとは、その人の生き方とか、悩みを聴くのではなく「存在」感を聴く、「存在」を確認するものである。その結果として、生き方を替えたり、そのまま安心したりする。しかし、それは単なる結果である。
存在はこの世界に生まれてから、社会的な存在感を身につけて生きるようになっても、それをもてないまま生きていても、あるいは、そこを抜け出してからでもかわらずにずっと「ある」。人と人とが向かいあって、この「存在」を確認しあう作業、それがカウンセリングの本質である。そう、私はクライアントから教えてもらった。
「子は親を救うために「心の病」になる」高橋克巳より

最近、「カウンセリング」を「傾聴」に置き換えて繰り返しこのセンテンスを見つめている。傾聴を始めるまえは気に止まらなかったセンテンス。

傾聴の現実は「生き方」のことや「悩み」が話の中心として話される事が多い。
どうも人には「解決」したいという本能があるようだ。
他者の悩みにも解決してあげたい、という反射的に思ってしまう。
それで、あれやこれやと言いたくなる。
自分の想像を超えていれば、専門家に繋いででも解決したくなる。
「傾聴するなら金をくれ」もやはり解決のうちなのだろう。
それは否定しない。ただ、それはそういうものであって、傾聴ではない、ということをこのセンテンスは言っている。
それと傾聴はまったく別の課題。
傾聴の課題を「生き方を替える」や「悩みの解決」とすると誤る。

それどころか、結果として生き方を替えたり、安心したりすることも傾聴の目的ではない、、、
正直にいえば、ここを勘違いしていた。
結果として話し手が自身で生き方を替えたり、安心することが傾聴の目的だと思っていた。
実際、話し手が安心したり、気持ちが楽になることで満足していた。
それで善しとしていた。
たんなる結果なんて思いもよらなかった。

そうではなく、傾聴は「存在」を確認しあう作業である

これは、、、正直、実感がない。
おそらくアタマで解ることでもないのだろう。
クライアント(話し手)に教えてもらった、とある。
教えられることは多くあるが、それが「存在」を確認しあうことだったか、どうかの感覚がないのだ。
いつか実感できることを信じて傾聴を続けるとするか。

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